でも、いいのだ。というのも、ロザリンド・クラウスのその文は、「主の寝室」というエルンストの作品がコラージュではなく、ある教材カタログの一ページの中の複数の図像のうちエルンストにとって不要な図像を絵の具で塗って“消し”そこに床と壁を描き込んで作られたものだ、という指摘から論を展開したものだったはずだった。肝心なのはその先なのである。だから、ロザリンド・クラウスが自力でもとのカタログを探し当てていなくても、別にかまわない訳である。エルンストのコラージュは、じつはオーバー・ペインティングから始まった、その意味するところは? というところこそがその文の重要なところだったのである。しかし、その肝心の論の展開の内容をほとんど忘れてしまっている。ということは読んでいないのと同じなのである。資料を保管してあってもどこにあるか分からないのでは、ないのと同じだし、読んだことは覚えていても読んだ内容を忘れてしまっていては、読まなかったのと同じになってしまう。こういう事態に繰り返し直面しながら、たまってしまった資料の山にアップアップしている。というか、もうとっくに資料というべきではなく、物体というべきだろう。
あ、話が逸れている。ロザリンド・クラウスが探し当てたのではなくても、エルンストのコラージュ作品の元ネタをすべて探し出してしまった人(たち)はいるわけで、これはこれですごいことに変わりはない、と言いたかったのだ。
つづく→