藤村克裕雑記帳
2022-11-28
  • 藤村コラム231231
  • 正木さんが送ってくれた榎倉さんの資料群
  •  正木基(まさきもとい)さん。もと目黒区美術館の学芸員で、『文化資源としての〈炭鉱〉展』(2009年)など大事な仕事を多数積み重ねた人である。
     2011年、目黒区美術館での開催のために正木さんが精魂込めて準備した『原爆を視る 1945ー1970』展は、同年3月11日の東日本大震災や福島第一原子力発電所の事故が理由になって、開催そのものが中止になってしまった。彼はもちろん、関係者、さらに展覧会を待ち侘びていた人々だけでなく、この国の人々にとって、まことに残念なことであった(中止に至る経緯は、例えば倉林靖『震災とアート』(ブックエンド、2013年)の「第6回」の中の「幻の展覧会「原爆を視る」に詳しく書かれている)。
     私はこの正木さんと1983年の夏の終わりに札幌で知りあった。

     1982年夏から84年夏まで、私は訳あって帯広市の実家で“家業”を手伝いながら作品を作っていたのだが、1983年夏、川俣正氏が札幌で「テトラハウス・プロジェクト」というのをやっていることを新聞で知った。ちょうど私も札幌で作品発表があったので、合間にその「テトラハウス」を見物に行った。正木さんは、「テトラハウス・プロジェクト」の仕掛け人だったのである。だから、「テトラハウス」でごく自然に知り合った。でも、その話は省略する。当時、正木さんは開館して間もない北海道立近代美術館の学芸員だった。
     その後、正木さんは札幌から東京に戻って(彼はもともと東京の人)、目黒区美術館開設準備室に勤務し、やがて1987年に開館した目黒区美術館を根城に怒涛の大活躍を始めた。これぞ! という時には、美術館に泊まり込むまでして時間を惜しんで仕事に集中していたようである。私も1984年秋から再び東京での生活を始めていたので、画廊などで時々顔を合わせることになって今に至っている(正木さんは定年まで目黒区美術館で勤め上げ、今はフリーで活動している)。
     “前フリ”が長くなった。

     その正木さんが、先日、ズッシーンと大きな重たい段ボール箱を拙宅宛に送ってくれた。もちろん重いのは箱ではなく箱の中身。私が取り組んできたある調査に役立つかもしれないからこしばらくお貸しする、と正木さんは言うのだった。
     箱に入っていたのは、1995年に急逝した榎倉康二さんに関する資料群で、頑丈な分厚いファイルが7冊! 正木さんは、1989年に榎倉さんの初めての作品集=『榎倉康二作品集 KOJI ENOKURA 1969-1989』博進堂)を編集し論考も執筆したので、その時に集めた資料群とのことである。
     感謝したとともに恐縮した。これだけのものを集めるにはベラボーな手間と時間とを要したに違いない。早速、ファイルの中身をざっと眺めてみて、私は身がすくむ思いがした。実に整然と整理されているのだ。
     なるほど、これはプロの仕業である。
     資料はこうやって整理するものなのか、と恐れおののいて、今、少しずつ中を見ているところである。

     正木さんが想定したように、“正木ファイル”を繙きながらで、私は、私の調査で今まで見逃してきたいくつかのことに気づくことになった。が、ここではそのことにも触れない。ファイルされた資料群を読みながら、考えたり思い出した榎倉さんのことを書いてみたい。
  •  榎倉さんは、私が2浪の春から2年間も通った予備校の先生の一人だった(1浪の時には北海道から上京はしたものの、芸大・美大受験のためにも予備校があることを知らなかったので、山手線の窓から見つけた小さな“研究所”に通っていて、落ちた。“研究所”のせいじゃないけど)。
     通った予備校は“マンモス予備校”で、生徒はもちろん先生もたくさんいて“完全クラス制”だった。榎倉康二クラスではなかった私は、榎倉さんの姿を知っているだけだった(私がいた数野繁夫クラスが高山 登クラスと櫻井英嘉クラスに挟まれていたことはこの「雑記帳」に書いた事がある)。
     2浪の年の12月も押し迫った頃、当時住んでいた西武線・東長崎駅の南側の本屋で『みづゑ』を見つけて立ち読みし始めたら、見知った顔の人の写真が出ていた。
     あ、これは隣のクラスの高山さん。
     あ、これは時々見かける榎倉さん。
     その『みづゑ』の特集は、今(今後)注目すべき“現代美術作家”を10人だったか15人だっかたを取り上げて、一人一人の顔写真・作品写真・それぞれが書いた文章を掲載したものだった。その年の春に上野の東京都美術館(もちろん昔の建物の)で見た二人の作品の写真も大きく載っていた。これは一体なんじゃらほい、と途方にくれた作品ばかりだったあの展覧会=「現代日本美術展」の“あれら”のうちの二つが、予備校の先生として見知っている榎倉さん、高山さんの作品だったのである。
     一つの部屋の動線からいえばの奥のコーナーを挟んで二つの壁に、ひと連なりの”下地”を作ってモルタルを塗りつけたのが榎倉さんの作品。
     大きな部屋を独占して何本もの枕木を積んだり並べたりして、奥の方のコンクリートに「SEA」と書き付けてあったのが高山さんの作品。
     現場にキャプションはあったのだろうが、作者の名前や作品タイトルを覚える”ゆとり”などなかった。たまたまの立ち読みで、それらが毎日通っている予備校の先生の作品だった、と知ったわけで、私はびっくりしてしまった。
     
     大学に入ったと同時に、その予備校の夜間部の雑役のアルバイトをしていたこともこの「雑記帳」に書いたことがある(櫻井英嘉さんのことを書いた時だったと思う)。中間部と夜間部との入れ替わりの時の教官室には昼間部の先生たちもいるので、榎倉さんもよく見かけていた。夜間部の準備が忙しいので、昼間部の先生たちと話なんかできないけど、榎倉さんとすれ違う時にはよく鼻歌が聞こえた。テーブルで英語(らしき)の手紙をサラサラと書いて航空便の封筒に入れたりしている時もあった。すごいな、と思って誰かに言ったら、榎倉さんはもうすぐパリに行くんだよ、と聞かされた。
     大学では高松次郎さんの集中講義があった。高松さんのことは田舎の高校生だった頃から知っていたので(これも確かこの「雑記帳」に書いた気がする)、3年生以上、との告知があったが無視して参加した。セザンヌ、ポロックといった画家たちの名前だけでなくハイデッガーとかメルロー・ポンティとかの名が何度も出た。
     3年生の時には榎倉さんの集中講義があった。パリから帰国して一年位経った頃ではないか。演習と講評とが交互に繰り返される授業で、講評では「日常性」という言葉が強調されていた。画家の名前が出たかどうか、記憶がない。この集中講義にも「3年生以上対象」と告知があったのに新一年生が多数参加していて、それぞれ実に切れ味が鋭くて面白く、私は何人もの一年生の顔と名前を覚えることになった(先の川俣氏もそのひとり)。
     その集中講義に参加した者たちのうち、私と同学年の金井裕也氏や一学年下の三宅康郎氏やさっきの一年生たちのうちの何人かが中心になって「自主ゼミ」をやり始め、外部から作家を呼んで話してもらったり、自分達で課題を設けて演習のようなことをするようになった(らしい)。そのくらい榎倉さんの集中講義のインパクトは大きかったのである。
     その頃、私は金井裕也氏と組んで交代で宿直のアルバイトをしていたので、「自主ゼミ」の時にはアルバイト先の宿直室にいたから、その都度、金井氏から話を聞くばかりで「自主ゼミ」の実際はあまり知らない。
     その後、学校(油画教官室)が空いていた(ように見えた)教室(=通称“モデル室”)を学生たちの自主的な「演習室」として使うことを認めたのだが、それは彼らの「自主ゼミ」の活動ゆえと言っていいだろう。榎倉さんはこの「演習室」のことを『美術手帖』に書いていた(1977年12月号、ルート2「反射板としての空間」)。その文章は、もちろん”正木ファイル”にしっかりとおさめられている。   
     余談ながら、「演習室」は今も芸大油画専攻に存続し続けていると聞いている。また、時期は違うが、多摩美彫刻でも、石とか木とかの素材ごとの専攻に飽き足らない学生たちが学校と交渉して「諸素材」という制度とスペースとを獲得した、という話を吉川陽一郎氏から聞いたことがある。さらにまた余談ながら、先の川俣氏の初期の代表作、と私には思える1979年の「把捉ー景5」は、その「演習室」で発表されている。ただし、私は実見していない。川俣氏と同期の有吉徹氏から、すごくよかったよ、と聞き、その後、『みづゑ』での川俣氏と藤枝晃雄氏との対談記事に添えられた大きなカラー写真図版で見た。その1980年6月号の『みづゑ』には、「ヴェネチア・ビエンナーレの日本作家」として小清水漸氏、若林奮氏と共に榎倉さんの記事が掲載されているのもなんだか面白い。
     榎倉さんは活発な作家活動を展開し続けるとともに、やがて杉全直先生の後任の専任教員として芸大油画で教育に携わるようになった。
     榎倉さんの作品はその現れを変え続けてきたが、学生時代に見た「ときわ画廊」での発表作品は、会場に入った瞬間に、こんなにきれいでいいのだろうか、と思うほど、まさに息を呑む思いがしたものである。
     10年ほどを経て、私は「白州」で榎倉さんともご一緒するようになって、榎倉さんと接する機会も増えた。「白州」のことで必要が生じて芸大の榎倉さんの研究室を訪れた時など、制作中の作業の様子の一端を垣間見ることもたびたびあった。並んで座った電車の中で、お父様の榎倉省吾さんとの話をしてくれたこともあった。
    (つづく)
    画像:上 正木ファイル
       下 みずゑ 1972年1月号より
     
     
     
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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