藤村克裕雑記帳
2022-03-08
  • 色の不思議あれこれ212
  • 松澤宥展を見た
  •  善光寺近くの長野県立美術館は、最近完成したせいか、よそよそしいほどきれいだった。そこで開催中の「松澤宥展」を見た。見応えという言葉では足りないくらいの見応え(というか、“読み応え”?)の展覧会だった。午前10時過ぎに会場に入って、午後3時くらいまで、目を凝らし続けることになったが、それでも全然時間が足りない。膨大で圧倒的な情報量だったのである。
     まずロビーで、「人類よ消滅しよう 行こう行こう(ギャティギャティのルビ) 反文明委員会」と墨書されたあのピンクの幟に迎えられる。富井玲子氏によれば、その幟の長さを松澤氏に尋ねたとき、即座に返ってきた答えは、もちろん22メートル、だったそうだが、実測すると22メートルではなくて17メートルだったという。それはどうでもいいのだが、世界中を旅してきた幟である。今や、レプリカも作られているようであるが、今回は天井から吊るされ、途中から床に延べられている。以前、豊科で見た設営とは違って、また興味深い。幟の設営のされかたはフレキシブルなのである。
     ところで、幟にはもう一種類あったような気がする。それは確か「人類の滅亡近し 皆しかと心の用意と 〇〇〇〇をすべし 反文明委員会 虚空間状況探知センター」とされていたと思う。こちらの幟の方はあまり展示されることがない。今回も展示されていないが、その理由は不明。 
     さて、私は間違えてしまった。エレベーターで会場の2階に上がり、手前にあった入り口を入って、常設展、というかコレクション展に迷い込んだのである。え、なんで? となんだか釈然としなかったが、展示自体は充実した興味深いものだった。が、やはり「松澤宥展」が気になって、“流して”しまうことになった。
     尋ねると、「松澤宥展」は2階奥が入り口だった。
     早稲田大学建築科で学んでいた時の課題の図面から始まっていて、よくもまあ、こうしたものまで、と驚くほどである。成績表まである。
     さらには、詩と取り組んでいた時期のガリ版刷りの同人誌や個人詩集をはじめとする紹介が続く。いずれも貴重なものだろうが、残念ながら全部に目を通すには至れなかった。そもそも私には「詩心」というものがない。詩の読解には困難がつきまとうのである。なので、最初から半分以上を諦めていたが、つい文字を追いかけてしまうのだった。が、追いかけるそばから忘れていってしまう。焦りが生じてくる。ともかく、多くの詩作品があって、松澤がVOUの同人でもあったことを初めて知った。松澤宥の詩は、日本語文字の行分けの姿から、次第に不思議な様相を見せ始める。言葉だけではなくて、記号や図形までが動員されて、グラフィックな印象が前面に出てくるのだ。発表されたのが印刷物であることがその印象を増している。その読み方もよくわからない。
     フルブライトの留学生としてアメリカで過ごして、帰国後、本格的に絵画に取り組み始める、という時系列だろうか。なんでも、ニューヨークで深夜ラジオ放送されていたUFOやテレパシーなどについての番組に熱中していたらしい。
     大ぶりの紙に描かれた絵画作品の多くは同じサイズで、今回、初めて公に紹介されるものだという。1964年のあの「オブジェを消せ」の「啓示」によって、それ以降、松澤自身によって、倉の奥深くに仕舞い込まれていた作品群の一部らしい。
     これが素晴らしい。
     確信を持って揺るがない形状、丹念な塗り込み、独特な色遣い、、、など、、、目を見張る。近年、松澤の誕生日の2月2日を中心に、小品の絵画作品やドローイングなどが、あちこちで紹介されてきている。が、私が見ることのできたそれらとは、今回は桁ちがいの完成度だった。豊科で見た時も驚いたが、展示されている数がさらに多いので、いっそう説得力を感じさせる。とはいえ、謎に満ち満ちた絵画群である。
     私はなぜか晩年の高松次郎のあの不思議なエイのような形状が描かれた絵画作品群を思い出していた。高松次郎は、フリーハンドで引いた多くの線の網目の中から手繰り出すようにあのエイのような形状を導き出していた。その形状に至るまで、一定の“手続き”が必要だったのである。その”手続き”を経て、大きなキャンバスにエイのような形状を堂々と描き始めたのだが、十分にそれを追求できないまま亡くなった。いかにも残念である。
  • それに対して、ここに並ぶ松澤宥の絵はそうではない。あらかじめ松澤に備わるある必然性のようなものから、一気に形状が導き出されている。そこには、描き出そうとする形状についての松澤の確信のようなものがある。その形状は実に不思議極まりないが、実は何か根拠があるのではないか、と考えた。 
     諏訪湖の上の広い空に浮かんでは消える雲? 「プサイの部屋」の天井や壁や柱や畳のシミ? 法具? ギリシャ文字? サンスクリット文字? 数学とか物理学で用いる記号? など、、、 うーん、残念だが、そして悔しいが、私の教養ではその由来、根拠が分からない。根拠などないのかもしれない。ともかく独特な形状である。そうした独特の形状が大きく「図」として描かれている絵なのだ。「地」と「図」との関係は揺らぐことはない。折目正しいのである。
     用いられている描画材は多様である。それは見てとれるが、何と何と何、というように断定するには至れない。時に、コラージュも動員されている。コラージュの場合、紙片を糊付けするだけでなく、ホッチキスでの固定も見受けられて、独特である。
     「図」の領域にはペインティング・ナイフとかで擦り付けたのであろうか、パテ状の素材を用いて独特なマチエールが形成されている。「地」と「図」との境界にも多くの手が加えられ、繊細な“詰め”を怠ることがない。額縁のガラスの反射が観客の観察を邪魔してくれるが、どの絵もその魅力は実に確かなものがある。
     床には、立体作品が置かれている。正方形の絵が組み合わさって立方体の箱状になったような作品もある。金剛界曼荼羅に由来するのだろうか、3×3の“構造”も頻出するようになる。今まで写真図版などで見知ってきた情報を通してのものに比べると、実物は格段に見応えがある。なるほど、こういうものだったのか、、、という感じである。見ていて飽きることがない。
     で、1964年に「オブジェを消せ」の「啓示」が松澤に訪れるのである。「啓示」の前提には、ここまで書いてきたような詩や絵画、立体、などの膨大な積み重ねがあったことを忘れてはならない。その果ての「啓示」である。1964年といえば東京オリンピックの年。美術界では「読売アンデパンダン展」が中止になった年である。そのことと「啓示」との関係を考える人もいる。確かにきっかけの一つではあったかもしれない。「啓示」を得た日以降、数日間、松澤は考え続けたという。そして“オブジェ”を消すことにしたのだ。それまでの“オブジェ”は倉にしまい込んだ。
     だからと言って、その後、事がすんなりと進むかといえば、そう単純にはいかない。当然のように紆余曲折がある。その経緯が丹念に辿られており、実に見応えがある。例えば、冒頭に触れた”消滅の幟”は1966年に大阪でのパフォーマンスと共に登場したのだし、「ハガキ絵画」もいきなり登場したのではない。その前段階の幾人かの人々との郵便でのやり取りの過程があってのことだ、と見た。その意味でも、「啓示」を経て、数人に送られたというオブジェを消すことを伝えるほぼ金剛界曼陀羅の形式で書かれた松澤の青焼きの“手紙”の公開には驚かされた。以降の松澤の展開は、ほぼこの“手紙”に尽くされていると言っていいだろう。
    つづく→ 
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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