藤村克裕雑記帳
2022-09-09
  • 色の不思議あれこれ225
  • ルートヴィッヒ美術館展
  •  雨が降るかもしれない、という天気予報だったので、傘を持って六本木、国立新美術館に行った。「ルートヴィッヒ美術館展」が、さすがにもう終わりそうなので、やっぱり見ておきたい、と例によっての貧乏性である。
     1:ドイツモダニズム、2:ロシアアヴァンギャルド、3:ピカソとその周辺、4:シュルレアリスムから抽象へ、5:ポップ・アートと日常のリアリティ、6:前衛芸術の諸相、以上6つのテーマで整理された展示だった。
     東京会場での展示作品数は142点。1903年頃作のパウラ・モーダーゾーン=ベッカー『目の見えない妹』が最も制作年代が古く、2016年作のマルセル・オーデンバハ『映像の映像を撮る』が最も最近の作品だった。
     絵画作品が最も多く、彫刻・立体、写真、映像、と展示されていた大部分の作品を初めて見た。写真図版などで知っていて実物を初めてみた、というのもあるので、ほぼ全部が初対面。それぞれ興味深く見ることができた。そういえば私はミュンヘン以外のドイツに行ったことがない。
     以下、順不同でメモさせていただく。
     絵画も彫刻も見応えがあったが、なぜか写真作品の前で長くとどまっていた。どうやっているのか分からない写真作品があったのがその理由の一つ。例えばハインツ・ハーイェク=ハルケ『裸体のコンポジション』。同一のネガフィルムからネガ・ポジを反転したり裏焼きしたりして、左右に配したものだろうか、”ルービンの壺”のことも想起させる。また、ヴェルナー・ローデ『パリスの審判』は6体のマネキン人形に下からの光を当てているが、よく考えるとそれだけではない。一体どうやって撮ったものか分からなくなる。マネキン人形の目の表情とあいまって不思議な写真になっている。同様、ヘルベルト・バイヤー『メタモルフォーゼ』では、向こうに森や地平線や空を見渡せる洞窟のような場所の手前に白い幾何形態がたくさんあって、右側からの光を受けている。これもよく考えてみると、幾何形態たちの置かれ方や光の受け方が不自然極まりない。一体どうなっているのか? と目を凝らしても分からない。合成写真か? とも思ってさらに目を凝らすが分からない。
     一方、ヴォルス『舗装石』のように、何気ない路面を撮っているのだろうが、なんとも言えない表情を備えて実に魅力的な、そういうタイプの写真もあってこれらも見飽きることがなかった。
     アレクサンドル=ロトチェンコの写真作品が並んでいた。私はこの人の写真が大好きなのだが、実物の写真作品とお目にかかれる機会は滅多にない。知っていた写真も初めての写真もあったが、彼の写真は、出会い頭のインパクトだけでなく、じっくり見てもまた面白い。例えば『ワルワラ・ステパーノヴァの肖像』の、細かな網目越しからの影が女性の顔の上に落ち、それが荒い網点のような効果になって女性の表情を柔らかく叙情的にしているところを的確に捉えたその微細な描写は素晴らしい(帰宅して、ロドチェンコの作品集を開いてみたが、図版ではあの凄さはとても捉えることができていない)。
     彫刻。エルンスト・バルラッハ『うずくまる老女』や、ケーテ・コルヴィッツ『哀悼』の手の表現。物理的にはペチャンコなのに、手の厚みや表情、つまり立体を感じさせるのはさすがである。しかし、三次元の彫刻作品では、どうしたってペチャンコそのものに見えてしまう場所がある。ついそうした場所を見つけてしまって、面白がってしまう(私は意地が悪い)。
     また、ハンス・アルプ『女のトルソ』は“前”と“後ろ”を保持しているようでもあるが、周囲を巡っていくと、“前”も“後ろ”もそれぞれに豊かな表情をもち「女のトルソ」を十分に感じさせていて、彫刻でなければできない表現になっている。“前”も“後ろ”もないのが彫刻というべきか。
     ドナルド・ジャッド『無題』も心にくい。壁に設営されたこの作品は60センチほど観客のがわに迫り出しているが、一見した時には大げさに感じられたその「60センチ」が重要だ、と見た。レリーフ本体の半円に近い形状が鏡面ステンレスに映り込んで実像と虚像とで円を作っているかのようだが、よく見れば上下にわずかな“トンガリ”がある。その“トンガリ”を見出すことを誘い込むのは本体の60センチの奥行きであろう。この作品も私は初めて見た。
     展示の中心を成す絵画・平面は、充実していた、と思う。キリがないので、いくつか。
     マックス・ベックマン『月夜のヴァルヒェン湖』は使っている色数が少ないのに、堂々と成立している。白、黒、青緑、そして黄色、ピンク、褐色。キレのいい面白い絵だ。さすが、というべきか。
  •  全く知らなかったK・O・ゲッツ(カール・オットー・ゲッツ)という人の『1955年3月6日の絵画』。なんでもアンフォルメルの作家として登場し、コプラに加わり、クヴァドリブ(初めて知ったのでよく分からない)でもあった、と説明文にあった。幅広の刷毛やヘラを巧みに使って塗ったり、掻き取ったりして描いている。決然とした身振りそのものが伝わってくる。とはいえ、それは入り組んでいて、描画の手順が単純に読み取れる、というものではない。そこがまた面白い。
     慣れ親しんできたつもりのロイ・リキテンシュタイン。彼の『タッカ、タッカ』。濃紺の色面を認めた時、黒から濃紺が飛び出してくるかのような新鮮な驚きを感じた。
     ヴォルス・フォステル『コカ・コーラ』。フォステルは「フルクサス」や「デコラージュ」で知っていたが実物は数えるくらいしか見ていない。なので、とても興味深く見た。「デコラージュ」は、印刷物を貼り重ねて剥がしていく、という単純な工程ばかりでもなさそうである。もともと「音」を扱ってもいたようなのである。大きな作品だった。
     プリンキー・パレルモ『四方位Ⅰ』は、逆に小さな作品。最近日本でみることができた同系統の作品に比べて、厚塗りで、マスキングテープの跡さえありありと認めることができた。その物質感が意外な感じだったが、またパレルモの別の側面を見たような気がした。
     大昔、学生だった頃「ライプツィッヒ派」という「派」があることを知った。その一員だったというヴォルフガング・マットホイアー『今度は何』。ああ「ライプツィッヒ派」とはこういうものだったのか、と見た。が、一点で「ライプツィッヒ派」が分かるわけもない。
     ヴィデオ作品のアンドレア・フレイザー『オフィシャル・ウェルカム』。現在の美術をめぐる様々な状況を踏まえたスピーチを装った“一人芝居”といった印象で、驚くことに、着衣を脱ぎながらそれは進行する。下着姿になって、やがて丸裸になり、ハイヒールも脱いでしまう。丸裸でしばらく喋り、もう一度ドレスだけ身につけて退場していく(ハイヒールはどうだっけ?)、というもの。英語だったし、気が気ではなくて字幕を読む余裕もなく、何を喋っていたのだったか、ほとんど集中できぬまま、次の人に席とヘッドホンを譲ったのだった。ダメなジジイだ。
     そんなわけで、帰路、ポツポツ雨が降り出したが構わず、傘を使わずに駅にたどり着いた。
     “勉強”になった。貧乏性も大事なのだ。
    (2022年9月8日、東京にて)

     
    ルートヴィヒ美術館展 20世紀美術の軌跡―市民が創った珠玉のコレクション

    ●会期:2022年6月29日(水)~9月26日(月)
    毎週火曜日休館
    ●開館時間:10:00~18:00※毎週金・土曜日は20:00まで※入場は閉館の30分前まで
    ●会 場:国立新美術館 企画展示室2E
    〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2
    ●主 催:国立新美術館、ルートヴィヒ美術館、日本経済新聞社、TBS、BS-TBS
    ●後 援:ドイツ連邦共和国大使館、J-WAVE、TBSラジオ
    ●協 賛:損保ジャパン、ダイキン工業、三井不動産観覧料(税込)
    当日 2,000円(一般)、1,200円(大学生)、800円(高校生)

    公式HP
    https://ludwig.exhn.jp/works.html

  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
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