藤村克裕雑記帳
2020-06-11
  • 色の不思議あれこれ176
  • 「神田日勝 大地への筆触」展 その3
  •  『室内風景』と取り組むに当たって、海老原瑛の油絵『1969年3月30日』(1969年)を日勝が知っていたことは確認されているらしい。海老原瑛の当該作品は「第9回現代日本美術展」(1969年)で発表され、その図録の作品写真図版を見つめる日勝の姿についての証言があるという。その海老原作品は、今回の会場に展示されている。広げた6枚の新聞紙を隙間なくキャンバスに油絵で描いたもので、シワの陰影も施されている。私は海老原作品を全く知らなかった。新聞紙を丹念に描いた例は、いろいろあると思うが、例えば以前東京ステーションギャラーで展示した吉村芳生は小さな文字ひとつひとつまで丹念に写し取っていたし、美学校絵・文字工房でも赤瀬川原平が授業に取り込んでいた。それはともかく、日勝は海老原作品の写真図版を見て、カチン!ときたのではないか。俺だって新聞紙を描いてきたぞ。こんな作品には絶対に負けない。俺は新聞紙だけ貼り込められた部屋を作る。
    『室内風景』のためのスケッチを見ると、床と壁が三面の“部屋”にすることは最初から一貫して設定されている。ということは、厄介な奥行きの問題を抱え込まねばならない。しかし、やってやろうじゃないか、と日勝は決めて、筆をとったのである。
  •  その前に『馬(絶筆・未完)』。久しぶりに見ると、以前の馬や牛に比べて黒い毛並みに豊かな色味を感じさせられる。このことについては図録の中で川岸真由子氏が指摘していた。素晴らしい。私も川岸氏に同意する。色味だけでなく、毛並みの表現は実に繊細になっていて、以前のようなナイフだけのワザではない。新たなワザの開発がまさになされようとしている。会場では、この作品のために描かれた多くのスケッチが展示され、日勝はこれをどう完成させるつもりだったのかを観客自身が想像するように促している。素晴らしい。
     で、『室内風景』である。『室内風景』の大部分を筆で描いたのはなぜか。ナイフで描くと時間がかかりすぎる? そうかもしれない。理由は今後の研究で次第に明らかになるだろう。特筆すべきは床部の複数の青みの広がりである。これは何? とずっと気になっていた。今回観察しての仮説だが、グラッシを試みようとしたのではないか。正面壁の上部では新聞紙の皺の陰影に青みのグラッシを用いている(染料の“泣き”ではあるまい)。床部でも紙袋の周辺ではこの青みはまあまあうまくいっているといって良い。しかし、マッチ箱の周囲、目覚まし時計の周囲、アルミの急須、灰皿などの周囲ではうまくいっていない。やりかけて、これはまずい、と判断してグラッシを途中でやめたのではないか。グラッシのことだけでなく、床部はうまくいっていない。床部の形状が不安定で、ものが浮き上がってしまっている。それは、床に敷かれた新聞紙の一枚一枚の形状や置かれた様々なものの形状が、この絵が求める線遠近におさまっていないこと、これが理由の一つである。日勝はこの絵で初めて線遠近に文字通り正面から挑んだ。それにしては床部のこの状況設定は複雑で難しすぎる。いくら日勝とはいえ混乱してもやむを得ないだろう。初めての挑戦なんだから。
     とはいえ、この混乱の解決策をグラッシに求めようとしたことには大きな意味がある。それは油絵の本来的な「層の構造」の問題を日勝が意識した、ということだからだ。油絵を「層」で捉えることは、日勝の従来の油絵への取り組みや考え方とは根本的に異なるものである。この時点でいよいよ“本格的な”油絵への取り組みが始まろうとしていたのである。これに関連して悔やまれるのは、日勝が支持体への必須の作業である膠塗り=絶縁層作りのことをずっと知らずにいたらしい、と思われることだ。釘が錆びていたり浮き上がっていたりしている作品もあった。『壁と顔』には釘が抜けた複数の跡があった。染料の“泣き”の現象か、と思われる絵もあった。それらを見ると、なんとも言えない気持ちになる。画室の連作では、ベニヤの色が巧みに利用されている。しかし油の浸潤の様子が明らかである。今後、ベニヤは酸化が進んでボロボロになるだろう。
    つづく→
     
    上:「室内風景」1970年
    下: 「ヘイと人」1969年
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
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