藤村克裕雑記帳
2021-09-07
  • 色の不思議あれこれ205
  • 「シンビズム展」を豊科で見た その1
  •         豊科で見た「シンビズム」展の小松良和

     9月1日、安曇野市豊科近代美術館の階段を登って、最初に出食わしたのが小松良和氏の作品群だったので思わず、おーっ! いきなり小松さんか、と声を出してしまった。
     小松さんは、私も所属した研究室(中根寛教室)の三学年先輩で、互いの浪人時代には同じ人(数野繁夫さん)に教わった。そんなこともあって、小松さんの作品は比較的見てきた方だと思う。が、付き合いがあったわけではない。
     1985年に36歳で亡くなった小松さんの遺作展は、次の年に芸大の学生会館の展示室と神田の田村画廊とで行われて、私もそれを見ているが、あれからもう35年たってしまった(!)。
     今回の小松さんの展示は、亡くなった年とその前年の絵画とドローイングとで構成され、資料(手作りの冊子や、手書き文字印刷による文を集めたファイルなど6点)の展示も加えられていた。小松さんが実に豊かな才能に恵まれた人だったことは、いま見てもなお明らかであり、その才能ゆえの苦闘もあったことが、展示された作品群からありありと見て取れる。
     小松さんは大学院に進んでから激変し、風貌も服装さえも変化していった。学部卒業の年に一人でヨーロッパ旅行をしたようで、それが契機の一つだったのかもしれない。大学院の修了制作は、まだ絵のような姿はしていたものの、パネル張りの画用紙の地の上に点のような形状が間隔を置いて並んでいるだけで、具象的な形も色彩も完全に消えていた。そして、大学院修了後のスルガ台画廊での個展では、画用紙全面に黒鉛を擦り付けた作品が展示され、次の同じ場所での個展では大量の白い糸が印象的なインスタレーションになっていた。以降しばらくは、その都度、紙、ガラス、水、鉄、ウレタン、黒鉛、木材、小石、糸などを使って展開していたが、どんな時も小松さんの繊細さは決して失われていなかったと記憶している。やがて長野に戻って、1984年のアトリエ完成後、絵に“回帰”して猛烈に制作し、それが今回の展示に並んでいる。短時間によくもまあ、というのが率直な印象である。どれも一定の完成度を備えているのにも驚かされる。
     油絵具の乾きを待つ時間がじれったいのか、アクリル絵具が用いられ、筆の運びは走りすぎているくらいで、左利きの筆触が露わな作品が多い。時に鋭く引っ掻いたような表情の線が加わり、ドローイングでは、針で描いて、色材を擦り込んで針の線と色彩とを同時にキワ立たせるだけでなく、紙がささくれ立ってしまうほど激しく引っ掻くようなことさえしている。
  •  1985年の三枚のパネルを連ねた『作品』では、筆で与えたメディウムたっぷりの色彩が乾き切らぬうちに、そこに筆の軸の後ろ側のようなものを突き立て、ついさっき与えた色彩や筆触さえ否定し去るような激しい身振りで線を引き、その痕跡が画面を覆っている。この作品は、会場では、パネル同士間隔をあけて展示してあったが、図録には互いに密着した状態で掲載しており、理由が分からない。念のために1986年に発行された『小松良和作品集』を書棚から取り出して見てみると、ここではパネル同士の間隔をあけて掲載している。些細なことだが、気になったのでメモしておく。 
     三枚組みのパネルと言えば、同じく1985年の『作品』では、パネル同士に間隔があるだけでなく、そこからパネル側面にも意図的に色彩が施されているのが見て取れる。この作品の場合、「全体像」が、小松さん自身の手になるという額装によってきっちりと固定されており、パネル側面の彩色の見え方を含め、パネル同士の間隔は厳密に確定されているのが分かる。
     こうした支持体の「側面」、つまり物理的な厚みを有するパネルという物体に向ける小松さんの眼差しが、実に興味深い。それはパネル側面への彩色だけでなく、別の現れ方もしている。
     例えば、『Land scape‘84眼線の速度』などキャンバスに描かれた作品に小松さん自身がしつらえたというシンプルな額縁が、かなり幅広な板を選んで作られていることや、二枚組パネルによる大作「Land scapeのためのドローイング」の2点でも、パネル側面に色彩=描画がなされていることにも伺える。これは、絵に“回帰”したとはいえ、“厚みある物体”としての支持体、基底材へ小松さんの関心が向かっていたことの現れであり、側面への彩色によって、画面のイメージと物体としての基底材とのあり方を一体化させようとしているとでもいうか、ともかく、絵への単純な“回帰”ではなかったことを想像させてくれる。
     また、画面に現出している“像”には、幾人かの作家達からの影響の名残のようなものが感じ取れる。影響の名残、それはそれで良いし、影響関係を強調したいのでもない。おそらく小松さんは、気になる作家達、作品達のことを含めて、気になる事柄から目をそらさず、画面の中で対峙していたのだろう。その対峙の仕方は多様で、小松さんによる応答もまた多様である。短期間に多くの作品に取り組み、その一点一点が異なった表情を見せることになっている所以でもあろうか。
     会場に掲示されていた説明文で、小松さんのお母様のご実家はフォッサマグナが作り出した深い谷の近くにあったことを知った。小松さんの絵に繰り返し現れ出ている鋭角を下にした三角形、またVの字の形状とフォッサマグナとの関係を示唆するその説明文には虚を衝かれた。今後、小松さんのことを思い出すたびに、その都度、考えさせられる事になるだろう。
     それにしても、これだけの才能の持ち主が、いよいよこれから、というところで亡くなってしまったのは、実に惜しいし、悔しい気持ちさえ蘇ってくる。しばし感慨に耽ることになった
    つづく→

    画像:上:『作品』1984年
    下:左『作品』1984(全体)年・右(パネル側面の部分)

  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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