藤村克裕雑記帳
2020-05-25
  • 色の不思議あれこれ172
  • 「神田日勝展」、開くのが ああ待ち遠しい その1
  • 図録『十勝の美術クロニクル』より
    左:《死馬》1965年 北海道立近代美術館
    右:《室内風景》1970年 北海道立近代美術館


     神田日勝さんの絵を考える上で、三つ違いの兄=神田一明さんのことは絶対に外せない、と私は思っている。
     神田一明さんは、1934年東京練馬区生まれ。ご両親は練馬で洋品店を営んでいたが、1945年8月戦禍を避け、一家で(父要一、母ハナ、一明、奈美子、富美子、日勝、幸江の7人で)鹿追にやって来て農業を営み始めた。入植地はほぼ原野だったというから壮絶な苦労を重ねただろう。一明さんは、鹿追の小中学校を卒業後、帯広柏葉高校に進学、さらにその後、1959年東京芸術大学油画科を卒業している。1950年代に、入植して間もない鹿追から東京芸大油画。ちょっと信じられないくらいだ。
     それはともかく、一明さんは、学部卒業後も専攻科(現在の大学院)に残ったが、1960年専攻科を中退して北海道に戻った。中学や高校勤務を経て、北海道教育大学旭川分校の教員になり、定年まで勤め上げた。同校名誉教授で旭川市にご健在のようである。画家としては「行動展」や「全道展」、個展などで活躍してこられた。私は面識も何もない。
     “50年代に鹿追から東京芸大油画”というこの“進路”の“背後”には、東京で生まれて11歳まで育った(つまりご両親がもともと東京に暮らしていた人だった)ということ以外にきっと何かある、と今回調べてみたら、一明さんが通った帯広柏葉高校には当時小林守材(こばやしもりき)という美術の先生がいたということに行き当たった。私は、この小林守材さんという人が一明さんの東京芸大進学のキーマンだろう、と見当をつけている。
     最近たまたま入手できた図録『十勝の美術クロニクル』(北海道立帯広美術館、2011年)の記載によれば、小林守材さんは、1896年札幌生まれ、小樽育ち。上京して川端画学校に学び、藤島武二などから教わった。なかなかの情熱家だったようである。柏葉高校着任時の生徒たちへの挨拶では、ショパンとジョルジュ・サンドとのことを手掛かりに一時間以上語り続けた、と伝えられる。高校生の一明さんは、この人から油絵の手ほどきを受けた。
     一明さんは、小林さんから教わった油絵の諸々を弟の日勝さんにも伝え、やがて、東京芸大を目指して上京したのである。一方、日勝さんは1953年に中学を卒業して、そのまま家業の農業を支え、やがて一明さんから教わった油絵を描き始めることになる。
     小林守材さんも1945年、疎開で東京から鹿追にやってきた人だった。当初、なんと神田家の隣に住んでいて、神田家と行き来があったという。ただし「隣」といっても東京の「隣」とは違う。少なくとも100メートルや200メートルは離れていたはずで、味噌汁などはすっかり冷めてしまう距離だろう。
     きちんとした美術の素養を身につけた人が、自分たちの隣=身近にいて親しくできた、そういう時期があったことは一明さんと日勝さんには幸運なことだっただろう。もともと二人は、絵がすごく上手だ、と近所や学校で有名だったのだから。
     一明さんは、かつて隣に住んでいた東京から来た絵描きの小林さんと、進学先の帯広柏葉高校で“再会”したわけだ。つまり、ふたりは教員と生徒との関係以上のある種特別な“心情”でつながっていた、と考えていいだろう。
     小林さんは1948年から1951年まで帯広柏葉高校で美術を教え、短い期間だったが当時の生徒たちに大きな影響を与えた。今も使われている帯広柏葉高校の校章は小林さんのデザインである。
     やがて小林さんは帯広市から滝川市へ移動になり(道立高校の人事は北海道全体を対象に北海道教育委員会が行うので、北海道のどこに移動になるか分からない。おそらく小林さんは、札幌、あるいは札幌近辺への移動を希望していたのだろう)、数年後には再び東京に戻って、「一水会展」などに出品していたという。1966年に亡くなっている。
     小林さんからの影響で画家を志した生徒のうちには、上京して東京芸大を目指した一明さんのような者もいた。おそらく「苦学」だっただろう。結果、一明さんは21歳(三浪?)で東京芸大の油画科に入学した。1955年のことだ。
  • 図録『十勝の美術クロニクル』

     余談ながら、私が通った帯広三条高校で美術を教えていた青木清一さんも、帯広柏葉高校で小林さんから教わった中の一人。一明さんと確か同期だったはずである。私の東京芸大への進学希望を青木さんに相談した時、青木さんは「俺は東京で五浪したけど受からなかった」と言った。つまり、東京芸大受験はやめておけ、簡単には入れない、と私にほのめかしてくれたのだった。青木さんは、東京での五年間の浪人生活を切り上げて北海道に戻り、札幌市の北海道教育大学特設美術科に入学したのである。卒業後、帯広三条高校で教え、私はそこで青木さんから美術の授業を受けたわけだ。冬、木造校舎の寒すぎる廊下にイーゼルを立てて百号ほどのキャンバスに窓から見える外の風景を描いていた青木さんの後ろ姿を思い出す。東京での牛乳配達の話をしてくれたこともあった。古い美術雑誌を何冊も貰った。
     さて、一明さんが東京芸大に入学した年(1955年)、柏葉高校OBなどに“勢い”がついたのだろう。彼らは帯広で「ポデス展」という同人展を組織し、展覧会を開催した。創立メンバーにはもちろん一明さん、青木さんも含まれている。それは5年間続いた。5年間、というのが意味深長である。表向きには「平原社」という昔からの十勝の公募展との確執が言われているが、私には一明さんが東京を引き払って北海道に戻ったことが大きく関係しているように感じられてならない。
     この「ポデス展」出品参加のためもあっただろう、芸大生だった一明さんはおそらく時々帰省し、日勝さんにいろいろな話をしたに違いない。目を輝かせて聞き入る日勝さんの姿が目に浮かぶようである。東京の話、芸大の話、展覧会の話、絵の話、友達の話、‥‥。話題は尽きなかっただろう。
     一明さんは、本や雑誌、図録や絵葉書のようなものも東京から持ち帰っただろうし、日勝さんの絵に厳しい注文もつけたのではないか。“秘密”のテクニックを教えたかもしれない。日勝さんが目を凝らしたのは、何よりも一明さんが持ち帰ってくる一明さんの絵そのものだっただろう。
     私もこの時期の一明さんの絵にとても関心がある。すごく見たい! 今度の展覧会に出ているだろうか? 出ていてほしい。
     東京芸大で学んでいた頃の一明さんの一端が想像できる資料が私の手元にないわけではない。先に記した図録『十勝の美術クロニクル』。その中に一明さんの『赤い室内』(キャンバスに油彩、123・5×144・3㎝)という絵のカラー写真図版が収録されているのだ。それは1961年の作だから、厳密には一明さんが北海道で教職に就いてからの作品になる。しかし、参考にはなるだろう。
    つづく→
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
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