藤村克裕雑記帳
2020-06-15
  • 色の不思議あれこれ178
  • 神田日勝とペインティング・ナイフ その1
  •  神田日勝の絵を考える上で、もう一つ避けて通れないのが、ペインティング・ナイフのことである。
     と、その話題に入る前に、先回書いた私の文に重要な誤りがあった。

     日勝は1969年10月、「独立展」に出品した『人間B』を見るために、1945年の鹿追入植以来初めて上京した、と書いた。これが誤りだった。ゆうべ(!)図録を見ていて気づいた。
     正しくは、日勝の上京は1969年5月。「独立選抜展」に出品した『壁と顔』を見るためだった。そのあと、10月の「独立展」に『人間B』を出品したわけである。この時は上京していない。
     読んでくださった方々には、誠に申し訳ありません。ここにお詫びして訂正させていただきます。ごめんなさい!  
     落ち込んで、しばらくして、なぜそういう誤りを犯したか? と考えてみた。
     おそらく、『人間B』が展示されている「独立展」を東京まで見に行ってから、鹿追で『馬(絶筆・未完)』や『室内風景』を構想し、描き始めた、という順番にしたほうが、「話」の筋道がスッキリできる、という気持ちがあったのではないか。大いに反省している。「物語」を捏造してはいけない。
     実際には、「独立選抜展」の『壁と顔』の展示を自分の目で見るために5月に上京して、その後、7月の全道展に『作品B』を出品し、10月の「独立展」には『人間B』を出品して、その後『馬(絶筆・未完)』や『室内風景』に取り組んだ、わけである。ただし、制作の時系列と、発表のそれとが一致するとは限らない。限らないが、この時期、日勝の気持ちが複雑に揺らいでいる、複数の「形式」を相対化している、そのことは明らかだろう。

     それで、ペインティング・ナイフである。
     油絵の歴史を考えると、ペインティング・ナイフを用いて描画している例はクールベあたりが最初になるだろうか(ペインティング・ナイフの作例をたどるだけでも、面白い問題が抽出できそうだ)。
     ペインティング・ナイフは鋼でできているから(ステンレスやプラスチックのものもあるけど)その弾力が特徴的で、大きさや、形状もいろいろ。また、腹、先端、縁というように各所で絵の具を厚く塗ったり引きずったりするだけでなく、引っ掻いたり掻き取ったり削ったりできることなどを含めて、ペインティング・ナイフだけででも絵の中に様々な効果を得ることができる。一旦その面白さにハマると確かにクセになる。日勝の作品のほとんど全てがペインティング・ナイフで描かれてきたとしても、それはそれで納得できる。とはいえ私は、別の理由もあったのではないか、とも思うのだ。
  •  図録所収の日勝の年譜を見ると、「帯広柏陽高校に通う一明からの影響で油絵を始める」のは1952年、日勝15歳の時である。このころから描き継がれたらしい(あるいは制作時期が特定できない)『風景』(1952年-56年頃)を除いて、1956年に作品が集中している理由については、すでに私の考えを述べた。
    この年の『痩馬』、次の年の『馬』についても少し述べた。
     春先の“はだれ野”を描いたらしき先の『風景』と、秋の青空の下で大小のニオの傍らで作業する二人の女性や馬車や馬を描いた『風景』と『自画像』の三点はキャンバスに描かれている。
     支持体にキャンバスを用いることは日勝には珍しい(正確には、注文に応じて描いた(らしい)小ぶりの作品の場合にはキャンバスを用いている場合がある。『神田日勝作品集成』を見ると、“注文制作”の場合でも、木枠に張ったキャンバスを支持体に用いている場合とベニヤを用いている場合との比率は、おおよそ一対一、ベニヤの方がやや多いようだ)。
     キャンバスに描かれた1956年の『自画像』の裏側に、実は別の絵が描かれていたことを『集成』で知った。その写真図版を見ると、裏側に描かれていたのは人間の両の手、いかにも中途半端な“構図”で、これはどうやら別の絵が描かれていた大きなキャンバスを切って“作った”もので、それを裏返して木枠に張り直し、そこにこの自画像を描いた、と思われる。つまり節約である。また、電信柱や建物のシルエットが描かれている『風景』は、ベニヤ板に描かれ、しかも別の絵が描かれていたその上に描かれているのが観察できる。これもまた節約だ。
     日勝はこの後ずっと、かなり長い間ベニヤ板だけを支持体にしている(上記の通り、注文に応じて描く場合には、キャンバスを使うこともあった)。ベニヤ板の方がペインティング・ナイフの感触が快いから、と言われるし、それもあるだろうが、どう考えても、キャンバスよりはるかに安い、つまり節約のためだ。日勝は画材の費用を可能な限り切り詰めながら油絵を描いていたのではないか。支持体はベニヤ板、絵具は安価な褐色系の土性顔料、こうした画材を選ばざるをえなかった。褐色系以外なら、染料系の絵具を選んだだろう。日勝が実際に使っていた、と会場に展示されていた缶入りのホルベイン社「ハイラックカラー」とはどんな絵具か? 染料系の徳用絵の具ではないか? 調べてみても資料に出くわすことができず、結局分からなかった。
     ペインティング・ナイフについても同じ理由があったのではないだろうか。油絵を描こうとすれば、多くの筆が必要になる(水彩のように数本の筆をその都度水で洗って使う、というわけにはいかない)。必要な色相ごとに筆を取り替えて使っていくから、どんなに少なくても大小20〜30本は必要になるだろう。油絵用の筆は値が張る。加えて、農事が忙しくて、筆の手入れをしている時間が惜しい(使った筆を一本一本石鹸で丁寧に洗うには時間がかかる)。冬、氷の張る寸前の冷たすぎる水で、泡立たぬ石けんをすりつけて筆を洗う辛さのこともあったかもしれない。ナイフなら、ボロ布や不要になった新聞紙などで拭うだけでいい。私はそんなこともつい考えてしまうのだ。
    つづく→

    画像:上「壁と顔」1968年 北海道近代美術館
       下「風景」1952年
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  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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