藤村克裕雑記帳
2023-11-06
  • 藤村克裕雑記帖 246
  • 10月のこと 4、「風景論以後」展を見た(10月13日)
  •  ずっと気になっていた東京都写真美術館の「風景論以後」展に訪れたのは、長谷氏と林氏の作品を見て「インスタレーション」のことや「風景」のことをぼんやりと考えていたからかもしれない。
     1970年前後に「風景論」が盛んだったという記憶があること、それについては、以前、ここ(「雑記帳」欄)でほんの少し触れたことがある。
     「風景論」は、永山則夫氏(すでに死刑が執行されたので“氏”をつけて表記する)の足跡をたどる映画『略称・連続射殺魔』がきっかけになって始まった、と記憶していたからである。当時19歳の永山氏が東京、京都、函館、名古屋、と連続射殺事件を起こしたのは1968年10月11月だった。永山則夫氏のことを書いて(打ち込んで)いけば、それだけで長大な文章にならざるを得ないので省略するが、1949年に網走で生まれて津軽で育ち、ずっと貧しい暮らし向きで充分な教育を受けることもできないまま集団就職で上京した(上京前に2度の家出があった、という)。上京後は流浪の生活だった、と言ってよいだろう。その過程でピストルを“入手”して起こした衝撃的な事件だった。
     映画『略称・連続射殺魔』は、彼の足跡を追って、彼が見たであろう「風景」だけをカラー撮影して作られた映画である。1969年に作られたが、一般公開は1975年になってからだったようだ。映画の制作は足立正生(監督)、岩淵進(制作)、野々村政行(撮影)、山崎裕(撮影)、佐々木守(脚本)、松田政男(評論家)の各氏で行なった。音楽評論家の相倉久人、ドラムの冨樫雅彦、サックスの高木元輝の各氏も音楽で参加した。これらのメンバーの一人、松田政男氏が、制作中のこの映画のことを1969年12月に雑誌で発表した文章の中で触れたのが「風景論」の始まり、と言われている。その文章は若松孝二氏の映画についての文章だったらしいが、筆者は不勉強で未読である。
     当時、松田氏がいろいろな場で書いたことを思いっきり圧縮すれば、映画の撮影のために4ヶ月間、網走ー札幌ー小樽ー函館ー青森ー板柳ー山形ー福島ー宇都宮ー小山ー東京と移動しながら(松田氏たちが)発見したのは、「この日本列島において、首都も辺境も、中央も地方も、東京も田舎も、一連の巨大都市として劃一化されつつある途上に出現する、語の真の意味での均質な風景なのであった」(松田政男「わが列島、わが風景」『風景の死滅』(1971年、田畑書店)所収)、ということであった。松田氏には、そうした「風景こそが、まず持って私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された」(松田政男「風景としての性」「風景論以降」展図録より孫引き)、というのである。言い換えれば、風景の中に〈権力〉を発見することができる(発見せよ)、ということである。
     こうした松田政男氏の「風景論」が次々に「論」を呼び、その中の代表的な論者が写真家の中平卓馬氏だった、と記憶している。また、大島渚氏の1970年の映画『東京戦争戦後秘話』(「戦」は中国語表記だろうか、ホントは“占+戈”の文字が入るのだが、私のPCの漢字変換では出てこず、そうなると筆者には当該フォントの見つけ方、作り方がわからない)が、新たな「風景映画」として登場して、「風景論」はさらに盛んになったと言われているが、それも省略する(「風景論以降」展図録には記述がある)。なお、この大島渚氏の映画には、脚本で当時19歳の原正孝(のちの原将人)氏がすでに実績のあった佐々木守氏と共に参加して大きな役割を果たしていて話題になっていた。北海道で高校生だった私は、それ以前に地方新聞の片隅に載った小さな記事で、“フィルム・フェスティバル”で東京の高校生がグランプリを獲ったことを知った。それが『おかしさに彩られた悲しみのバラード』というタイトルであったことや、その高校生の名が「原正孝」であったことをつい記憶してしまった。が、その映画はいまだ見る機会がない。
     
  •  そんなわけで、『風景論以後』展である。
     久しぶりに訪れた写真美術館ではシニア割引があってとっても嬉しかった。展覧会会場入り口には、松田政男氏の著書『風景の死滅』がうやうやしくケース入りで展示されていて、驚いた。だってウチにもある本だ。もちろんケースには入っていない(入れたほうがいいのか?)。

     順路の最初の部屋には笹岡啓子氏の写真群が展示されていた。説明文によれば、笹岡氏はもう20年以上広島平和記念公園とその周辺を撮影し続けているとのこと。また、東京のPhotographer’s galleryに設立から関わって、そこで作品発表を行なったり雑誌編集などの活動もしているようである。
     川べりでリュックを背負った若い女性が今まさに右足から動こうとしているところをスローシャッターで捉えた写真は写真面の大部分を占める美しいブルーと共にスローシャッターゆえに捉え得た川面の奇妙なテクスチャーが極めて印象的だ。というか、この川を撮ったらしい青色のテクスチャーがとても面白いが、女子学生らしき右足が消えかかっているのから見ればスローシャッターでの撮影らしい、、、という順番で、写真の中での出来事を読み取ったのであるが、そんなことはともかく、とても面白い。
     また、その左隣の写真。市電の待合所であろうか、大きなガラス窓に自分の影を落としながらベンチに座る男性を逆光で捉えた写真は、大変複雑な空間を示しており、これも大変興味深く見た。男性がガラス面に落とした影は、被曝して影だけを残して跡形もなく消えた市民の写真(有名な写真だ)をも連想させたばかりでなく、ガラス面の汚れが伝えてくるその厚み=裏と表とのそれぞれの表面のこと、そのガラス面を透かして見える座る男性やベンチ、さらにその向こうに平行面をなして立つもう一つのガラス面、そのガラス面にかすかに映り込んだ男性の顔、これら2枚のガラス面のさらに向こう側、そして手前のガラス面とカメラとのあいだ、、、というように幾重にも重なる空間の厚みをそれぞれの表情の巧みな描写を通して巧みに捉えており、しばし、見入ってしまうことになった。
     これら2点を含めた写真群の大半には撮影された場所が特定できるように地名の標識などが写り込んでおり、シリーズとして広島平和公園近辺を「記録」し続けることへの笹岡氏の強い意志を感じさせた。また、原爆資料館の展示を見る人と展示物とを同時に捉えた写真も名状し難い。さらに、夜の公園を捉えた写真群、その中の1点に、真っ黒い広がりの中に極小の数個の白い点が写り込んでいるだけの写真が、そこに拡がった水面の所在を確かに感じさせてくれていて、写真にはこんなこともできるのか、ととても驚いた。
  •  遠藤麻衣子氏の映像作品『空』は、そのタイトルを英語にすると『X』なのだそうだが、そのタイトルに込めた意図が私には汲み取れない。
     大変性能の良いヴィデオカメラで撮影して、これも大変性能の良いプロジェクタで映写しているらしく、大きな壁に映写される映像は精巧で、文句なく美しい。私が遠藤氏の作品が映写されていた大きな暗い部屋に入った時、壁には水道の蛇口から水が流れ落ち続けるところを捉えたらしき映像が微かな音と共に映写されていて、一気に引き込まれた。それはとても綺麗だったが、あいにく、すぐ次の映像に進んでしまった。その水の映像をもう一度見たいと思って、ループがひと回りするまで、と思ってずっと見ていたら、気がつくと二時間以上経ってしまっていた。にもかかわらず、私がもう一度見たいと思っていた垂直の水のリボンの表情を捉えた映像が壁に映し出されることはなかった。さすがに、諦めて席を立ったのである。二時間以上を費やした“おかげ”で、残りの展示を大急ぎで巡らねばならないハメに陥ったのである。念のために確かめたが、キャプションに映写時間についての記載はなかった。なぜか? 思うに、おそらく、どこから見始めてもいいしどこで見終わってもいい、ということなのだろう。確かにワンカットで撮影された映像は短いインターバルを置いて、別のワンカットに続いていく。長時間のカットもあれば、短時間のもあった。帰宅して調べてみると、三時間以上経過しないと一回りしないようである。おまけに、インターネットで全編見ることができるとある。ナーンだ、と半ばガッカリしながら試しにノートパソコンで見てみると、画面が小さくて、会場で見たあの迫力も良さも何にも伝わってこない。だから、会場で二時間以上見ていたことは“何より”だったわけである。スジも前後の関係も何も無く、編集を極力切り詰めたかのようなそれぞれの映像を見ているのは、なるほど、ありふれた風景をぼーっと見ている状態に似ていた。覗き見のような感覚も生じていた。
     が、この映像の前で二時間過ごした影響は大きかった。私にだって“次”の用事はあったので、シワというものが押し寄せてきたのである。

  •  今井祝雄氏の赤になった信号機の赤だけを赤く塗ったたくさんの写真は、同一構図であったり車で移動中であったり歩行中であったりでの撮影だな、ということはわかったものの、信号機の赤の部分を赤い色材で塗ってあるのが、“かわいい”、といういかにもノータリンの感想を得ただけで精一杯。
     清野賀子氏の写真は、なんだか怖い。陰の領域が黒いからだろうか、などと無責任に思っただけで精一杯。
     たかし(ホントは漢字で、山かんむりに金、と書くが、このフォントもうまく探し出せない)利子氏のヴィデオ作品は、見ることをほぼ諦めて、泣く泣く先に進まざるを得なかった。
     中平卓馬氏の写真もじっくり見ることが叶わず、夜の海面を捉えた写真の上方に細かすぎるおそらくはフィルムのキズを確認してその写真の強烈な物質感にたじろいだにとどまり、ケースにおさまった資料をじっくり見るのも諦めて、これもこれもウチにもあるわい、と憎まれ口と共に後ろ髪を引かれながら、先に進まなければならなかった。
     次の部屋では、ちょうど『略称・連続射殺魔』の映写が始まるところだった。空いていた椅子に座って見始めると、過日、大塚の映画館で見た同じ映画の時とはまた印象が異なって、映像とナレーションとの意思的な構成の様子がよく伝わってきて驚くことになったが、ここでも泣く泣く途中で立ち上げらざるを得ず、最後の展示室へと移動しなければならなかった。
     最後の部屋には、大島渚、若松孝二の映像資料(予告編?)がモニタで繰り返し流され、関連資料が展示されていた。それらの中に永山則夫氏の獄中ノートの現物を見つけて、わずかな時間だったが見入ることができたのみで会場を出なければならなかった次第。

     こんなふうに、幸運にも二人の彫刻家(長谷宗悦氏と林武史氏)の作品を見ることができたことから、「風景」と「風景論」そして「風景論以後」との関連を探ろうとした私のささやかな“試み”は、ただの語呂合わせに終わってしまいそうである。力不足が情けない。

  •  以下余談。
     実は、『風景論以後』展の会場に入る前に『TOPコレクション 何が見える? 「覗き見る」まなざしの系譜』展を見た。カメラ・ルシダが出ているかな、と思ったからである(現物を見たことがない、できれば体験したい)。残念ながらカメラ・ルシダは出ていなかった。が、「見る」ということを問いかけるとても面白い展覧会だった。長時間を費やしてしまった。
     中でも出光真子氏のヴィデオ作品が印象に残っている。タイトルを失念したが、モニタの横にカメラが据えられており、モニタの前に座った作家の顔がモニタにリアルタイムで映し出されている。そして作家はモニタに映る自分の顔を見ながらお化粧をするのである。その様子が別のカメラで捉えられる。その「別のカメラ」が捉えた映像による作品だ。普段私たちは自分の姿を鏡で見ている。鏡の像が左右反転することは誰でも知っているが、カメラがとらえた像は左右反転しない。なので、お化粧をするとなると、普段は鏡の前ですることに慣れきっているのだから、自分の動きとモニタの像の関係とに戸惑いが生じることになるだろう。それを何食わぬ顔で出光氏は進めるのである。見ることと身体との関係とを問う面白い作品だった。
     もう一つの作品の中で、出光氏の日常を監視しているかのような「目」が映し出されるモニタのある部屋の中で、出光氏が電話で話しているところも捉えられる。その時の出光氏の口調が、おお、昔の山手の奥様方はこのような口調の日本語を喋っていたのか、という驚きを伴う丁寧なもので、これにも驚いた。昔、と言っても1977年の作品である。私が学部を卒業し大学院に進んだ年である。あの頃に、私の全く知らなかった世界があった、ということを知った。

     そういうわけで、気がつけば、あっという間に10月も最終盤にさしかかっているのだった。
    (2023年10月25日、東京にて)

     と書いたあと、やっぱり気になって、もう一度「風景論以降」展を訪れた。先にゆっくり見ることができなかった作品も見ることができたが、すでに書いた(打ち込んだ)上記の私の文に対しては、明らかな誤りを修正する以外、手を加えるのをやめた。
     あっという間に11月になってしまっている。この温かさが不気味ですらある。
    (2023年11月5日)
     

    風景論以後 ※この展示は終了しています
    開催期間:2023年8月11日(金・祝)~11月5日(日)
    休館日:毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館)
    https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4538.html
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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