

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展を見た(6)
「O GREAT IN OUR DULL WORLD OF CLAY /秋風悠悠動軽波
THE MAID OF BUDA AND THE CARVEN WOOD /伐木之樵切水之魚」
2025年、樹脂、UV耐性コーティング、180.0×233.0×396.0cm。
この彫刻作品が今回最も大きな彫刻作品で、床に直に置かれていた。
乱暴な言い方をすれば、大きかろうが、小さかろうが、岡﨑氏の彫刻作品にあまり違いはないように私には思われる。
すでに、陶土を使った岡﨑氏の彫刻を知っている観客には、粘土のかたまりどうしを大胆に接合していくその作り方は、接合面というか、塊と塊との界面をこそ問題にしていることは明らかだからである。
界面という手がかりで考えてみれば、それはすでに「こづくえ」に始まっていたことは明らかであり、この場合、界面は、ナイフを入れて切り分け、その一方を折り曲げることであらわになった切断面がそれだった。界面があらわになった姿こそが「こづくえ」や「あかさかみつけ」シリーズ以来、岡﨑氏のレリーフ=彫刻の面白さだったのである。
また、かつて展開した二枚組の「絵画作品」。これらは、トレースとマスキングとによって成立していた。トレースした形状でマスキングして塗られた絵具の外郭=キワに出来上がる“厚み”もまた界面なのであった。
これらは、1990年代初頭、代官山のヒルサイドギャラリーで発表された平面を組み合わせた大きな立体や、新木場にあった南天子ギャラリーSOKOで発表された3種類9個による立体が問題にした界面のことが変容したものである(この時、立体作品と共に「絵画」作品も同時に発表されていたことを思い起こすとよい)。それは、やがて、石膏やブロンズや金網による彫刻作品に至り、種明かしのようなセラミックでの彫刻に至って、今回の展覧会での3Dプリンタを動員した巨大な出品作の数々に繋がってくる。こうした岡﨑氏の作品の流れを思い起こすと、そこには「界面」という問題意識が貫かれていることが見えてくる。
とはいえ、手の痕跡をほとんどとどめていない原型=その粘土の塊は、どう操作されて得られたのか、私にはまったく見当がつかない。ヘラなどで掻き取った痕跡が、ある種の“決め”の意思を示しているのだろうとは想像できるが、果たしてそれで“決まった”のかどうかさえ、よく分からない。土練機から取り出したばかりのような柔らかめの粘土を、板状に拡げて、それを巻き取りながら、さらに曲げたり、捻ったりしていったものだろうか。あるいは、ゴムのような伸び縮みする素材の布状のものに柔らかめの粘土を包み込んで操作しているのだろうか。
岡崎氏が最も原初的な材料といえる粘土を彫刻制作のために選んだことには、大きな意味がある。心棒のない塑像。
コラムINDEX
「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展を見た(5)
右側の作品のタイトル。
「小さな鳥は北のほうから海上をかなり低く飛んできた。舟のへさきに止まった彼女はずいぶん疲れている。「旅は始めてかい?」言葉が伝わるよりも速く鳥は飛ぶ。言葉が消えぬ間に波は静まり太陽も戻ってきた。私はもう夢を見ることはない。けれど瞼の上に鳥が飛んでくる。青空にみるみる白い雲が棚引き、朗々たる声がはらはら雪のようにふってきた。「あの歌は誰が歌っているの」。砂浜にライオンがいる。「きみは幾つ?」ライオンは微笑む。ごらんなさい、ごらんなさい、わたしは幸せです。いつも挨拶を交わしていたけど、話をしたのははじめてなのです。」カンヴァス、アクリル、210.0×260.0×6.7cm(パネルは二種類、左側に210.0×78.0×6.7cm、その右側に210.0×52.0×6.7cm、その右側に78.0cm幅のパネル、その右側に52.0cm幅のパネル)
左側の作品のタイトル。
「静かな場所だった。聴こえているのは存在しない音楽。賑やかなのは私の耳のせい。波止場のざわめきは遠く、しとやかに聴こえる。まごまごしてここに迷い込んだ。眩しい光。こまごました磯の香り、イナサの風。あの島に行くつもり?舟の名は?アイオロス、一緒についていくさ。」カンヴァス、アクリル、210.0×130.0×6.7cm(パネルは二種類、左側に210.0×52.0×6.7cm、右側に210.0×78.0×6.7cm)
いずれの作品にも画面の上方と下方に布地の白さが横方向に拡がっていると同時に、パネルの連結部の縦線を越えて色の形が繋がる領域がなくなったわけではないが、この作品ではパネルの縦線で画面が断ち切られている印象が強く生じさせらている(パネルの縦の継ぎ目が目立っている)。が、そうしたパネルの縦線を横切って画面左上から右下へとわずかな傾斜を呈する動勢を感じさせている。色彩も、彩度の高い原色ではなくいわゆる中間色を用いている。塗りも比較的薄い印象だ。筆触(ヘラ触)はごく短い。これらが全体からの印象である。
右側の大きい作品から見ていこう。
「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展を見た(4)
・「パネル絵画」を本格的に展開し始めたのは2022年以降。
・それまでは、「縦長のパネルを水平に並べる程度の扱いに」留まっていた。
・この形式を使うのは、「大きな画面を作るために画面を分割する必要性」があったからでもある。
・それだけではなく、「画面にあらかじめ物理的比例関係を組み込んでおく」という理由がある。
・制作過程では、「パネル同士の隣接関係は可変的で何度となく入れ替えられる」。
分かりにくいので、私なりの解釈を加えて少し補足したい。
「大きな画面を作るために画面を分割する」というのは、「大きな画面」を分割して得ることができた小さなパネル同士を組み合わせて最終的にもう一度「大きな画面」を作り上げる、という意味だろう。
「画面にあらかじめ物理的比例関係を組み込んでおく」というのは、パネル同士の組み合わせ方の可能性をあらかじめ想定している、ということだろう。とはいえ、一度に全ての可能性を探るわけにはいかないから、「縦長のパネルを水平に並べる程度の扱い」から始めたのだろう。
制作過程において「パネル同士の隣接関係は可変的」、ということは、制作している時にはパネルを入れ替えたり、上下逆さまにもしたりしているが、岡﨑氏が完成したと判断した時以降には、パネル同士の結合は固定してもう入れ替えをしないし、させない、ということだろう。
そんなことを念頭に置いて、たとえば「パネル絵画」と取り組み始めて間もない2016年の作品を見てみる。3階フロアの「パネル絵画」群と比べる意味においてもこれは大事なことだ。「パネル絵画」をはじめて見た時、どう見ていいかまったく分からなかった、ということもある。そのリベンジを試みたい。長いタイトルを書き(打ち)写す。
2点組の作品である。
右側の作品
「あなたはこの水を乾かし、あるいは飲み干すだろう。けれど決して水は滅びない。水は姿を変え移動しただけである。水は乾くことなく、水がのどの渇きを癒すのだ。と似て、私の指一本いや手足を切り落とそうと、わたしは切り落とせない。姿を変える勝手気ままが水ではなく、わたし(の赤い水、血)ではない。水の中に水の姿に関わらぬ何か、として水の霊が宿っている(水が弾きだすと波と早合点しないように。波は音楽のようにあちこち拡がり増えたり減ったりするが、水の霊は増減せず分割もされない)。わたしは水の中にあり、泳ぎ、まどろみ、そして目覚める」
カンヴァスにアクリル絵の具、210.0×260.0×7.0cm。(この大きな作品=通常のカンヴァスのサイズでいうと400号弱の大きさになるが、ここで使われている縦長のパネルは4枚。寸法は二種類、210.0×108.0×7.0cm、210.0×72.0×7.0cm。それぞれ各2枚である。横幅の寸法が3対2の比率になっており、完成時には、両側に幅広のパネル、中央に幅の狭い方の2枚のパネルが結合されている。また、幅広のパネルの縦横の比率はほぼ2対1、幅が狭い方のパネルの比率はほぼ3対1である。)
左側の作品。
「宙空の箒/アウフヘーベン」
カンヴァスにアクリル絵具、25.0×18.0cm(会場で配布されていた「作品リスト」には厚みの寸法の記述がない)。「ゼロ・サムネイル」シリーズとほぼ同一の寸法と形式の作品だろう。「ゼロ・サムネイル」のシリーズには奇妙な“額縁”がついているが、この作品も例外ではない。
右側の作品と左側の作品との2枚組の作品は、今回の会場では仮設壁同士が成したコーナーを挟んで展示されているので、2点組というより、ひとつずつ独立した作品としても見える。2016年の制作というから、先の岡﨑氏のコメント文に従えば、「縦長のパネルを水平に並べる程度」の段階で、「パネル絵画」の可能性をまだ本格的には展開していない時期の初期作品である(2022年以降の作品は3階フロアにまとめて展示されている)。
「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展を見た(3)
岡﨑氏のいわば代名詞とも言える通称「あかさかみつけシリーズ」は、1981年3月村松画廊での「たてもののきもち」というタイトルの氏の初個展で発表された。その時の「あかさかみつけ」が、今回は「こづくえ」と同じ部屋の壁に展示されている。
不覚にも私は氏の初個展を見ていない。すでに述べたように、私が岡﨑氏の作品を初めて見たのは1981年11月の「第2回 ハラ・アニュアル」でだった。先輩画家の桜井英嘉氏が、今やってる「ハラ・アニュアル」に出してるから見ておいてよ、と言うので、品川の原美術館へ見に行った。その時に、廊下の壁に展示されていた名前も知らなかった岡﨑氏のいくつかの作品を見たのである。現在言われる「あかさかみつけ」シリーズだった。どの作品だったか、何点あったか、などはもう記憶していない。記憶はないが、とても面白い、と思って、氏の名前を覚えた記憶はある。その時、私はただちにタトリンを思い浮かべていたが、磯崎新氏は「『カタジナ・コブロだね』とニヤリと」言ったそうである(『群像』2025年4月号、田中純氏による岡﨑氏へのインタビュー「シン・イソザキがヨミがえる」での岡﨑氏の発言)。私は1987年にポーランドのウッジを訪れるまでカタジナ・コブロをまったく知らなかったが、岡崎氏は1981年にはすでにもう知っていて磯崎氏と話がはずんだというのだから驚きだ。
今回は、1981年の「たてもののきもち」での発表作のうち、「そとかんだ」「あかさかみつけ」「うぐいすだに」「かっぱばし」の4点が展示されている。「かっぱばし」は個人蔵、それ以外は高松市美術館の所蔵。「うぐいすだに」以外は、先に指摘した“先すぼまり”になっているのが興味深い。この当時の岡﨑氏は空間を包み込みたい、と思っていたということだろうか。その“包み込み”たかったらしき空間と、その外側の空間とが行き来すること。
1981年の「あかさかみつけ」などを見るのは三度目だったが、ジオットの壁画を参考にして着彩したというその色どうしの響きが、鈍く、重苦しく感じさせられて、あまりジオットらしくなく、想定外の印象を受けた。ポリスチレンのボードは建築模型によく使われるようだが、その切断面には空隙がない。そうしたところからの影響があるかもしれない。岡﨑氏は、その切断面にも着彩していて、面への着彩との関係を探っており、複雑な「見え」を実現しようとしている。
観客の視点が変化するたびに(もっと言えば、同一の視点でもそこから視線を動かすたびに)、岡﨑氏のレリーフは次々と表情を変えていく。というか、表情が変化していることに私たちが気付くことをレリーフが促してくる。柔らかな一分節の曲線と直線、面の形状と色の広がり、隙間のかたち、目の位置が動いて隙間が消えた時に手前と奥の面とが一体化する時のヴォリウム感、ネガポジの形状の反復・反転・交錯が生み出す豊かなリズム、、、。これらが豊かで心地よく、見飽きることがない。まさに「こづくえ」からの展開だといえよう。
「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展を見た(2)
1981年3月の初個展で「あかさかみつけ」シリーズを発表する以前、岡﨑氏はどんな作品を作っていたか、その一端を、1979年作というこの「こづくえ」の展示で明らかにしている。よくこれを手元に保管してあったものだ。同時に、今回、これをよく展示・公開してくれた。今回の“目玉”のひとつだろう。
「こづくえ」は、この展覧会の冒頭に展示されており、1階入り口からこのあたりだけ、“モギリ”のお姉さんと監視員が観客の順路を誘導していた。ここから見はじめてください、というわけで、岡﨑氏と美術館との強い意志を感じさせていた。であるから、おとなしく監視員の指示に従えば、入場直後にこの「こづくえ」と出会えることになったのだが、観客の動線から言えば、進行方向の右側に立てられた仮設壁の裏側の壁面に「こづくえ」が掛けられているので、私(たち)は、その気配を感じて振り向きざまに出会うという“演出”のゆえかまんまと、おお、これが出たか! と思わず叫びたくなるくらいにされるのであった。が、同時に、床置きの什器が気になって(ここにも習作的な貴重な作品群が置かれているが)、他の観客もいるし、「こづくえ」がいくら小さな作品だといっても、仮設壁の幅も十分にあるわけではないから、仮設壁の奥の方へと回り込んだりして「こづくえ」を観察することがやりにくいのだった(気にせず何度も回り込んじゃったけど)。
先に述べた『ART TODAY 2002 Kenjiro OKAZAKI 岡崎乾二郎展』図録(セゾン現代美術館、2002年)などに掲載された小さな白黒の写真図版で、この作品のことは知っていたが、こうして実物とまみえると、実物の情報量は実に豊かであった。色、形状、大きさ、ボール紙の材質感、切り口、折り曲げたところに加えられた力の入り具合、繋ぎ合わせ部を補強する紙やホッチキス、色紙の薄さ、セロテープや糊の跡らしきいくつかのシミ、、、など、たえまなく目に飛び込んでくる。
「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」展を見た(1)
じつに失礼なふるまいであった。岡﨑氏にお詫びしたい。
申し訳ありません! 今後気をつけることはもちろんのこと、この『雑記帳』で生じさせてしまっていた表記の誤りはすべて私に責任があります。「雑記帳」の管理運営者にお願いして、訂正を実現してもらうようにしていきます。
そんなわけで、しばらく落ち込んでいた。
が、念のため、手元にあったいくつかの資料を確認してみた。
たとえば、私には極めて衝撃的だったあの『批評空間1995〈臨時増刊号〉モダニズムのハード・コア』(1995年3月、太田出版)。この書物の表紙カバーには3箇所に「岡崎乾二郎」とある。その12年後=2007年、この年の5月発行の『芸術の設計 見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社)。この本も、監修・著者として「岡崎乾二郎」と表記している。
「自由を扶くひと 望月桂」展を見た
展覧会タイトルの「扶く」を恥ずかしながら読めなかった。大昔、高校入学時に買わされた今やボロボロの『角川漢和中辞典』で調べて、やっと読めるようになった。「たすく」と読む。「望月桂」は、そのまま素直に「もちづきかつら」。
「原爆の図 丸木美術館」にははじめて行った。
この名高い美術館の名はもちろん知っていたが、「原爆の図」というハードさに対する気おくれ、あるいは複雑な思いがあって、訪れるには至らなかった。が、今回は、「望月桂」 という人の作品をぜひ見たかったので、意を決して行って来たのである。
最近、卯城竜太氏と松田修氏との対談を収めた『公(こう)の時代』(朝日出版社)という本をたまたま読んで、すごく感心したことは先にこの「雑記帳」に書いた。その本で、望月桂というひとや横井弘三というひとのことを初めて知ったことも書いたが、その後、偶然、この展覧会のことを知った。その時、これは見に行く、と決めて、その偶然に感謝した。
たどり着いた「丸木美術館」の入り口、その分厚そうな板の扉は閉じられていた。めげずに扉右手のガラス窓から声をかけ、奥に現れた女性からチケットを買った。入口扉を、えいっ、と押して、中に入ると、ホールがいきなりショップになっていて、いささか面食らった。右手はガラス窓越しに事務所、左手に二階への階段やトイレがある。右手前方に通路を見つけて、ぐんぐん進む。左手に二つ展示室があったが、これらを素通りしてさらにぐんぐん進んで、風間サチコ氏デザインという(あとで知った)ヘチマをあしらったロゴのある仮設壁の両側の、人が出入りできるほどの“すきま”、その右側から展示室に入った。すぐのところに出品目録があったので、メモ帳がわりにさせてもらった。
加藤啓、ゾフィー・トイバー&ジャン・アルプ、ヒルマ・アフ・クリント、岡﨑乾二郎など
なんだか、文を書くのが困難になって、書けば、やたら長くなって時間がかかってしまう。読んでくださる方には迷惑な話、それはわかっている。わかっているが、どうすればいいのか自分ではわからない。そこで、文を書くことから意識的に離れてみたが、なにかが起きたわけではなかった。もとのもくあみ、である。
先日、地下鉄・丸ノ内線・四谷三丁目駅の近くの、「四谷ひろば」というところにある「四谷三丁目ランプ坂ギャラリーRAMP」で、加藤啓氏の展示と、それから別の日にパフォーマンスを見た。まったく知らなかった人だが、SNSへのある方の投稿に興味を覚えて、出かけて行った。
「四谷ひろば」は、かつて小学校だったところ。子供が減って、ここの小学校は閉じてしまった。そのあと、有志がここでさまざまな活動をしてきているようである。訪れた日には、体育館で居合の稽古が行われているのが見えた。稽古着に刀(模擬刀であろうが)姿の男女が十人ほど。居合は、人間を日本刀で斬ったり突き刺したりする技術の体系なので、ハタから見ているだけでこわい。なので、居合の見物はほどほどにして、ギャラリーに向かった。
ランプ坂ギャラリーには三つのスペースがある(廊下も含めれば四つ)。そのうちの最初の会場と廊下には、なにやら不思議な物品=人形やオブジェが、壁沿いや展示台の上にたくさん吊られたり置かれたりしていた。どうやら、海岸や川辺で拾い上げて持ち帰った流木や貝殻、プラスチックのゴミ、空き缶、‥‥などを相互に針金でつないでつくったもののようであった。会場を埋め尽くすほどの数の人形やオブジェ、片隅にはペンチや針金などが置かれた作業机もあって、どうやら会期中にも、そこで修繕や新作のための作業を行なっているようだ。会場に踏み込んだ時には、一見、雑然とした印象だったが、随所に工夫があるのがわかってくると、作者の細やかな視線や手ざわりがジワジワと伝わってくる。
ひとつひとつに見入ろうとしていると、奥の方からガラガラと音を立てて、大きな人形を持った背の高いやせた年かさの男性が現れて、横に渡して張ってあった針金にその人形からの針金を引っかけてふたたび奥に消えた。どうやらこれらをつくった加藤啓氏のようだ。修繕がすんだのだろうか。
ふたたび人形たちに見入ろうとしていると、ガッシャン! と大きな音がした。横に渡した針金が外れてさっきの人形が床に落ちてしまったのである。
慌てるでもなく、さっきの男性がもう一度現れて、外れた針金をあらため、床にうずくまって落ちた人形の具合を確かめ始めた。つい、お手伝いしましょうか? と声をかけると、いいえ、大丈夫です、と言った。背中が、放っておいて頂戴! と言っていたので、その場を離れ、人形のひとつひとつに見入っているうちに、男性のことを忘れてしまった。
言ってみれば「見立て」による仕事である。多く使われている流木にはできるだけ手を加えないように配慮されている。拾得物相互を針金で繋いで人間や動物や魚や鳥や虫などをつくる、と決めている。関節や節のところでつないであるから、動く。というか、動くように作っていく。操り人形としての仕掛けがこれも針金で加えられていく。とても面白い。強引すぎるような「見立て」さえたびたびなされ、そうなってくると俄然面白くなる。
二つ目の部屋にあったオブジェの方は、舟や船、楽器というか音具のようなもの、富士山、‥‥など。窓を巧みに使っている。展示に用いられているテーブルに、白い布がさりげなく掛けられているのが人形やオブジェへの愛情を感じさせている。ここにも多くの人形が吊り下げられている。
三つ目の部屋には、絵や紙で作ったレリーフが並んでいた。船や海をテーマとした作品群だった。
会場を二巡し、男性=加藤氏とお話しできた。人形やオブジェは鎌倉の海や三浦海岸で拾ったものでつくっている、と言った。昔、故大野一雄氏のところにいたことがある、とも言った。つまりダンスの心得がある人なのである。その後、新宿区の小学校の教員となって定年まで勤め上げたが、若い頃から緑内障で、いまは片方の目がほとんど見えない、とも言った。「ランプ坂ギャラリー」ではすでに何度も展示をしてきたという。展示のためのさりげない工夫がじつに合理的で感心させられたが、そのよってきたるところが理解できた。思わず、なにか買って帰りたくなって申し出ると、私がとりわけ気に入った作品は、パフォーマンスに使うので売れない、と言った。やむをえず、値段をつけて展示してある中から、ひとつ選んで買わせてもらった。いま、リビングの壁にぶら下げてある。とても気に入っている。
「スペース23℃」での榎倉康二展(3)
壁にピンッ!と直接張った大きな綿布上には、油=廃油を染み込ませた細長い板を綿布に押し当ててできたようなその板の痕跡めいた形状と、その形状からさらに滲み出たしみの形状とがあった。その形状と、その形状をなした細長い板それ自身とを組み合わせていく。あるものはその痕跡上に、あるものはそこからずらして固定し、つまり、今度は、作品の一部として色材=油=廃油と一体化した「版」が登場しただけでなく、「版」が布に作り上げた図像に対して、その「版」によってさらに“出来事”が生じている、ということが強調されたのである。
「版」自体が作品の一部として登場する版画作品の作例を、私はこの他に思い浮かべることができない。これは、榎倉氏独自の発想が展開したもの、と言えるだろう。その結果、「版」からの図像=“痕跡”だけでなく、そこからさらにしみがにじみ出ているという“出来事”、さらに「版」そのものが、その“痕跡”からずれたり、回転している、という出来事も生じていたのである。
それは、同じ年の10月10日~15日のときわ画廊個展で更なる展開を見せた。この時、作品は2点あって、互いに緊密に関係を及ぼし合って、画廊空間全体が作品化していた。「版」である細長い板は、壁に張られた大きな綿布上の図像=“痕跡”から離れて床上に置かれ、まるで実体と影とが反転したような不思議な印象をもたらし、それが2点の作品相互で緊密な関係性を生成させていたのである。私はこの時の榎倉作品に立ち会った時のことを今でもありありと思い出す。ときわ画廊の空間全体が緊張感に満ちていて、あまりにきれいで言葉を失った。こんなにきれいでいいのだろうか、とさえ思いながら立ち尽くしていた。
そのときわ画廊個展の一ヶ月後に「今日の作家’77 絵画の豊かさ」展(11月18日~29日)への出品、翌年(1978年)2月の東京画廊個展、さらに1978年6月からの「べニス・ビエンナーレ」出品、とこの「無題」のシリーズは繋がっていってひと区切りとなった。
その1978年の「ベニス・ビエンナーレ」への出品以降、最初に発表されたのが、今回、「スペース23℃」に展示されている3点を含む西村画廊個展(10月)と「今日の作家〈表現を仕組む〉」展(11月)への出品作「干渉率(空間に)」のシリーズだったのである。
やっと元のところへたどりつけた。回り道が過ぎたかもしれない。
この西村画廊個展と「今日の作家77 絵画の豊かさ」展では、制作時には「版」の役割を果たしていたはずの正方形の物体や他の物体(木っ端のようなもの)は、作品にまったく姿を見せていない。その痕跡だけを残して綿布上から消えたのである。観客は版であり色材でもあったはずの物体、つまり正方形をその一部に備えたなにかしらの物体や木っ端を、画面に残されたその痕跡=図像から想像するしかなくなった。版画では、「版」は、刷りが終われば用済みとなるのが普通なのだから、このシリーズで再び普通の版画の形式に立ち返った、とも言えるだろう。
「スペース23℃」での榎倉康二展(2)
その正方形の周囲に広がるにじみ=しみは、黒い色が油性であるゆえに綿布に生じているように見えるが、榎倉氏の手によってにじみ=しみのような表情を得るために“作られて”いるのかもしれず、本当のところが分からない。ここでも私(たち)は、このシリーズの作品以前の榎倉氏の代名詞のような油=廃油=しみの作品の展開をあらかじめ知っているがゆえに判断が危うくなってしまっている。
いずれにしても、今回展示されている「干渉率B(空間へ)」のシリーズでは、画面の中に、黒い正方形の形状をしたものが、唐突に放り出されたような印象を生じている。その理由として、一つには縫い目の水平との関係、二つには綿布の薄さと白さ、その面積の広がり、三つには正方形の傾き。また、会場に一緒に展示されている3点の写真作品がその印象を誘導している感があるのも否めない。
制作されてから長い年月が経ってしまったことが、綿布に散らばる無数の小さなシミからあらわである。この自然のしみが、榎倉氏のしみの作品にあらたな表情を刻々と加えているのだ。
余計なことだが、今回展示されている30号の「干渉率B(空間に‥‥)ーNo.2」は1978年10月23日~11月4日の西村画廊個展「干渉率」においての出品作の一つである。当時の図録に掲載されているからまちがいないだろう。ところが、この文の最初に述べた作品集『榎倉康二 KojiEnokura』の中の「資料編」の年譜の1978年の項には、西村画廊個展「干渉率」開催についての記載がない。理由は分からない。
「スペース23℃」での榎倉康二展(1)
過日、東京画廊+BTAPが、A4・ハードカバー・250ページ近くの大変美しい書物=『榎倉康二 Koji Enokura』を発行した。その発行を記念したシンポジウムがこの展覧会前に「スペース23℃」で非公開で開催されていた。シンポジウムには、当該書物に論考を寄せた熊谷伊佐子氏(美術評論家)、佐原しおり氏(東京国立近代美術館)、光田由里氏(多摩美術大学)、それから、
榎倉氏と1960年代初頭の“浪人時代”から濃密な付き合いがあった美術家・藤井博氏とが登場し、東京画廊の佐々木博之氏の司会でそれぞれ貴重な発言をした。その記録映像が展覧会場で流されていたが、会場でこのシンポジウムの映像をすべて視聴するのはきびしい。なぜって、とても長いから。幸い「スペース23℃」のホームページから視聴できる。
榎倉康二氏は、1995年10月、それまでの奥沢の自宅から現在地へと引越すために、その準備作業中に心筋梗塞で亡くなった。52歳だった。あれから30年経ったわけだ。
「スペース23℃」は、榎倉氏夫人の榎倉充代氏が、その引越し先の榎倉氏の仕事場になるはずだった部屋を展示スペースとして2000年に開設した。その後、庭に新たな小ぶりの建物=スペースをつくって、そこに移動し現在に至っている。自然光を取り込んだたいへん美しい空間である。
開設時には、榎倉康二氏の遺作展を四期にわたって開催し、その後も、榎倉氏の作品展や、榎倉氏の父君=画家・榎倉省吾氏の作品展、それから生前の榎倉康二氏と密接な関係があった作家達の個展など、着実な展示活動を継続してきている。じつは私も、榎倉氏と親しかった二人=故八田淳氏の遺作ドローイングや写真作品と資料類による展示、故藤原和通氏の初期作品の写真と資料による展示をさせていただいて、大変お世話になった。「スペース23℃」での榎倉展では、毎回、榎倉氏の作品やドローイング、それから他ではあまり見る機会のない資料も展示されるので、その都度発見や驚きがある。
今回の展示は、1977~78年の「干渉率B(空間に)」のシリーズからの3点と、これらの作品の“原型”と考えてもよさそうな1972年の写真作品「予兆ー鉛の塊・空間へA」のシリーズからの3点による構成である。これに、冒頭で述べたシンポジウムのビデオ映像が加わっている。
シリーズ『干渉率B(空間に)』からの3点は、100号が2点、30号が1点。いずれも、既製の木枠に張られた薄手の綿布(うっすらと木枠のシルエットが透けて見える)に、にじみ=しみをともなった黒い正方形の形状をひとつずつ配した作品である。正方形は、木枠の四辺から離れた任意の位置に、ある傾きを持って配されている(今回は展示されていないが、横長画面中央に正方形が水平・垂直にきっちり配された作品もあるようである)。
木枠に張られた綿布は、どれも、二枚の綿布を縫い合わせて作られており、その縫い目が水平に伸びている。そのことから、縫い目と黒い正方形の位置との関係を強く意識した設定であることが見て取れる。100号や30号の大きさなら一枚の綿布で事足りるのだから、わざわざ二枚の綿布を縫い合わせる必要はない。なのに、わざわざ縫い合わせている。このことからも、榎倉氏はこの作品で、縫い目の水平に特別な役割を担わせていたことは明らかである。
『芸術新潮』の谷川俊太郎特集
読み耽ったその日からすこし経って、用事で、古くからの知人と南阿佐ヶ谷駅で待ち合わせた。無事に落ち合って、その人の家へと並んで歩き始めながら、じつは、去年、吉増剛造の本で「阿佐ヶ谷の谷川さんの家へ」という文章を見つけて、谷川俊太郎の『道順』という詩を頼りにしてこの通りの南側一帯を随分歩き回ったけど、彼の家を見つけることはできなかった、と話した。知人は、じゃあ案内しよう、と遠回りしてくれた。そのうち、別の話に夢中になっていると、あ、ここだよ、とその人は立ち止まった。
なんともあっけなかった。
「不思議にひくい木造のお家」と吉増氏が書いていたその家のたたずまいは、想像していたのとは全く違っていたし、「犬」の字を丸で囲んだ四つの「登録標」はもちろん、表札もなかった。これじゃあ見つからない。
その日はさっさと用事を済ませて、あかるいうちに帰宅した。そして、ずっとこたつの上に置いたままの『芸術新潮』誌を手に取って、つい、もう一度読み耽った。
野村和弘個展
このギャラリーでは、かつて(今でも)私が驚嘆した(している)野村氏の作品=「色点の作品(ドット・ペインティング)」にかかわる展示がなされていた。
「色点の作品(ドット・ペインティング)」のシリーズから2点。1988年から1993年まで彼が滞在したドイツ・デュッセルドルフで、1989年から制作され始めたシリーズだ。
ドローイング3点。「色点の作品(ドット・ペインティング)」の発端から、「色点の作品(ドット・ペインティング)」の形式が確定するに至るまでの間に試みられたドローイング(群)からの3点である。
そして、今回の展示のメインをなす「封印されたタブロー形式の作品 2025/2009」。ドイツで制作されたこのシリーズの作品群のうちの101点を一点一点箱に入れてそれぞれ封印してしまった。その101箱を床に並べている。
会場の見かけは、極めてシンプルだが、大変に高密度の展示になっている。
思わず「封印した」ではなくて「封印してしまった」と書いた(打ち込んだ)。なぜそんなことをする? という私の複雑な思いがここに込められている。
封印を示す小さな赤丸印のシールが一つ一つの箱に8つずつ、箱の厚みをなす4辺以外の8つの辺の中央に、赤丸の直径部が箱の辺のエッジに重なるように(二つの面を跨ぐように)それぞれ貼り込んである。さらに、その上を幅広の透明接着テープで貼り込んである。じつに厳密な封印である。それらが縦に床に直接立てられ相互にピッタリと接する状態で並べてあるから、つまりは細長い直方体=角柱になって横たわっているのである。封印を示す赤丸の半円が二つ接することで正円となり、それらが几帳面に並んでいる。僅かに生じている正円からの誤差が、これら全てが手作業で成り立っていることを示す“しるし”になってもいる。
それぞれの箱の側面には、作品タイトル(=「WIE OFT ISST EVA DEN APFEL?」エヴァは、何回リンゴを食べる?)とこのシリーズの作品のための通し番号とをタイプ打ち(?)した“シール”を、同一寸法で箱の同一の場所に貼り込んでいる。
通し番号は「1ー39」からはじまり、最後が「1ー195」となっている。つまり、「1ー1」から「1ー38」まではこの作品に含まれておらず、封印されていないようである。「1ー195」が最後なので、ドイツで作られたのは195点、ということかもしれないが、確かなことは分からない。途中、いくつも番号が欠けていて、都合101箱。「1ー195」の通し番号が、封印された作品の中では最も“近作”だ、ということになる。
箱は、ボール紙製で作品のサイズよりひと回り大きいはずだがともかくは同一サイズで作ってあり、「タブロー形式」の作品がひとつ完成するたびに、箱も作って作品をその箱に収めてきたものである。もともと透明な接着テープを使って箱を作ってあったが、封印に際してさらにあらたな透明接着テープを十字に(赤丸の上になるように)貼り込んでいる。
一つ一つの箱の色に差異が生じているが、そのこともまた、それぞれの箱の中に一点一点異なった同じシリーズの作品を収めていることを示している。そのような封印された101点の「色点の作品(ドット・ペインティング)」なのである。
野村氏がこれら「タブロー形式」の作品を封印してしまったものを作品として発表したのは、2010年いわき市立美術館での東嶋毅氏との二人展の時だったはずだ。あの時、美術館2階の階段を取り巻くロビーの様なスペースの床と壁とが出会う領域のひとつに細長く直方体状に置かれたこれらを見た時、私にはにわかにその意味が理解できず、また野村氏が何故そんなことをするのか、ということにも思い至らなかった。そして、時を経るうちにこの「封印」のことを忘れてしまっていたのである。それがこうして久しぶりに人々の前に展示された。
会場にいた野村氏に尋ねれば、ドイツでは木枠に綿布を張ってそれにこのシリーズの作品を作っていたが、日本に持ち帰ったこれらの作品にカビが生えてしまった。それが封印を決断する大きな理由になった、とのことだった。修復することも考えたが封印することを選んだ、という。封印された101箱から成る直方体=角柱のこの作品の購入を申し出る個人や機関があったとしても、決して封印を解かないことを条件にする、ということも野村氏は言った。
決してまぜっ返そうとしたわけではないが、私はつい、どこかの銀行の貸金庫係みたいにこっそり封印を解いて中を見て、必要なら修復もして、知らん顔して、中身を入れ替えて、箱だけ元のように戻しておく人がいるんじゃないの? と尋ねてみたが、野村氏は取り合わなかった。つまり、決して封印は解かない。封印を解くことは許されないのである。
帰国後も続くこのシリーズの制作には、木枠に綿布ではなく、木製パネルに化繊布を使っている、ということも野村氏は言った。絵具はいずれもアクリル樹脂絵具とのことである。
「このシリーズ」、と書いた(打ち込んだ)。そもそも「タブロー形式」の作品=「色点の作品(ドット・ペインティング)」とはどんな作品なのか、それを共有するために、ギャラリー入口からの動線を無視することにはなるが、奥の壁に2点横に並んで展示されていた「色点の作品(ドット・ペインティング)」を少し詳しく見ていかなければならない。なお、「このシリーズ」には「タブロー形式」の他に壁に直接描く「壁画形式」と「ドローイング形式」とがある。今回は「タブロー形式」と「ドローイング形式」とのシリーズからの展示である。
佐川晃司個展
とはいえ、蓄えを使い果たした私どもが行けるところは限られて、一番手っ取り早いのが入場無料の画廊、それから美術館図書室や国立都立区立図書館、近所の公園などということになってしまった。外食などはもってのほかである。必要な時はおにぎりを持参する。高齢者のための東京都の無料パス(じつは有料で入手するんだけど)を極限まで有効利用して、どんどん繰り出していくのだ、という心意気である。
そんなわけで、過日、久しぶりにいくつかの画廊を訪れてみると、おお、なんということだろう、見応えある展示が目白押しだったのである。
まず、地下鉄・新富町駅に降り立って、7番出口から徒歩数分のヒノ・ギャラリー。
「佐川晃司展『半面性の樹塊』ー1990年を中心に」。
1985年から1999年の間に制作された油絵7点、ドローイング4点、合計11点を並べた自選展であった。
1985年というと、その3月に、佐川氏や彼の同期の川俣正氏、田中睦治氏、保科豊巳氏が東京藝大油画の大学院の博士課程を満期退学した年である(私は“ぷー”だった)。佐川氏は、その年の4月から京都精華大学の専任教員となって京都に移り住み、今日に至っている。大学教員としての彼の仕事の方は2024年3月の定年退職まできっちり勤め上げた。この間、国公私立美術館などでの個展やグループ展、東京、京都、大阪の画廊での個展というように、作品制作と発表とを着実に進めてきた。
ヒノ・ギャラリーでの作品展示は2022年3月に続き2回目。前回の発表は、東京ではかなり久しぶりの個展であったが、今回は1985年からの京都での生活・制作が始まって少ししてからの五年間ほどの取り組みを中心にした展示で、この時期に佐川氏が今日まで取り組み続けているテーマや方向を見出し、自らの取り組みの確信を得た、ということを示している。
今回の展示作品を時系列に沿って整理すれば、1985年の作品として「何処のドローイング」、1988年の作品として油彩「空き地F4号」、「空地No.3によるドローイング」「半面性の樹塊の原形ドローイング」、「しげみのスケッチ」、1989年の作品として油彩「空地120号」、同「空地F6号」、1990年の作品として油彩「半面性の樹塊No.2」、同「半面性の樹塊No.4」、同「半面性の樹塊No.5」、そして1999年の作品として「半面性の樹塊No.33」、ということになる。
「半面性の樹塊」のシリーズの「原形」は1988年にはドローイングとして現れ出ていたことが今回の展示で明らかにされているが、それまでに「何処」のシリーズ、「空地」のシリーズがあったことも示されている。「半面性の樹塊」のシリーズは1989年〜1990年あたりから本格的に大型の油彩画で繰り返し制作されてきて、とうに100作を超えていると伝え聞く。
となれば、1985年以前の作品は? ということにもなろうが、じつは、昨年(2024年)11月〜12月に京都精華大ギャラリーで、「Seika Artist File #2『Imagined Sceneries ー7つの心象風景をめぐる』」という展覧会が開催されて、ここに佐川氏は1981年〜2年頃に制作した作品を出品した(らしい)。つまり、この展覧会で、今回展示されている作品群以前の作品群が、ある程度まとめて公開されていたのである。
残念ながら、私はこの文の冒頭に記した拙宅の工事があって、その展示を見に行くことができなかった。見ることができていれば、このヒノ・ギャラリーでの展示はまた違って見えただろうし、2024、25年という時期に、学生時代や京都における最初期の作品を並べた佐川氏の意図をさらに身近に感じ取ることができただろう。それを思うと、見に行けなかったことがいかにも悔やまれる。
ヒノ・ギャラリーに踏み込んでまず目に飛び込んでくるのは、入り口右側壁に展示されている大型の絵画のヘリが壁面から僅かに浮いて展示されていることと、入口から対角線状の二つの壁に展示されていた「空地120号」(1989年)と「半面性の樹塊No.33」(1999年)であった。いずれも油彩の大作であるが、どちらかの作品から見始めなければならないので、私は横長の「空地120号」の方から見ることにした。
「ルイーズ・ブルジョワ展」に滑り込んだ
“ルイーズ・ブルジョワ展から帰ってきたところ、言っとくけど素晴らしかったわ”。
もちろん、“素晴らしかったぞなもし”、でも、“素晴らしかったべさ”、でも、他の言い方でもまったく構わないのだが、私は、まんまと美術館のこの仕掛けに乗せられてしまった。この展覧会は素晴らしかった。ぐうの音も出なかった。
何が素晴らしかったか?
ひとつひとつの作品への作家の圧倒的な集中度。そこに込められた作家の繊細さ、それを支え抜く作家の強さ。そして透徹した知性。
ルイーズ・ブルジョワといえば、私の場合、ただちに思い浮かぶのは「眠りⅡ」1967年や「花咲けるヤヌス」1968年や「少女(可憐版)」1968−1999年のような、どうしたって人間の性器を想起させる彫刻作品や、布を縫い合わせて作った頭像などのちょっとこわい人体彫刻や、どろどろした赤いドローイング群だった。ある時、「C.O.Y.O.T.E」1947-49年(1979年に改題、ピンクに塗装)を何かの本で知ったときは、意外に感じてすごく驚いたことを覚えている。1997年の横浜美術館での「『ルイーズ・ブルジョワ』展」は見ていない。森美術館へのアプローチにある巨大な蜘蛛の彫刻はさすがに知っていたが、しげしげと見ることもなく、ルイーズ・ブルジョアについても不勉強で、ほとんど何も知らずにここまできた。ふと気付いた時、いつのまにか年配の女性作家がぐいぐい頭角をあらわしてきていた、といった程度の認識だったのである。これは、とても恥ずかしい。じつは大変なキャリアの持ち主だった。
埼玉県立近代美術館で「没後30年 木下佳通代」展をみた
次の日(1月8日)は快晴。JR北浦和駅に降り立って、埼玉県立近代美術館「没後30年 木下佳通代」展に滑り込んだ。
関西(=神戸)を拠点に活動した木下佳通代氏がすでに亡くなっていたことや、亡くなって30年経っていたことさえまったく知らずにきたが、私の学生時代、この人の作品は美術雑誌などで頻繁に紹介されていた印象があって、この際、私自身のことを振り返る意味でも、その活動の流れを知っておきたい、と思ったのである。
展覧会は、木下氏の学生時代の作品から絶筆まで網羅的に展示されていて、資料展示もあって、丁寧に作られていたが、木下氏が絵画に回帰したという1982年以降1994年に亡くなるまでのあいだに限っても、通し番号で800の作品やドローイングを残したというし、それ以前の作品やドローイングを含めれば、総作品数は1200点以上になるというから、とてもそれら全て(=文字通りの全貌)を展示することは不可能で、大まかな歩みを示すにとどまったようにみえた。
だからかどうか、なんだか物足りない、という印象を抱えて帰路に着いた。
木下佳通代氏は1939年神戸市生まれ。中学生の時に油絵セットを買ってもらって美術部に入部し、高校で美術部の部長になったほどに絵に親しんだ。現役で京都市立芸術大学西洋画科に合格し、1962年の卒業後は神戸の中学校の教員をしながら制作・発表活動を続けた(発表活動はすでに学生時代から始めている)。この間、高校時代、文化祭で他の高校の美術部部長だった河口龍夫氏と知り合って、交際を続け、1963年に結婚した。結婚生活は短期間で終わったようだが、その間、河口氏らが1965年に結成した「前衛美術集団・グループ〈位〉」と行動を共にした(ただしメンバーではなかった)。離婚の時期が展示でも図録でも特定できないが、図録に掲載されている中村史子氏編の「年譜」には、1968年の項に「この頃までグループ〈位〉は活動を続けるが、木下は河口龍夫と袂を分かつ」とあるので、このあたりと考えていいだろう(私=フジムラは、以前勤務していた学校で河口龍夫氏ともご一緒したので、ご当人の風貌や身のこなし、語り口に直接触れている。しかし、不勉強で河口氏の作品やその展開については詳しくなく、今、資料も手元にない。お二人がご夫婦だったことも全く知らなかったので、ちょっと驚いた。同時に、なるほど、という気持ちが生じたことも白状しておく。なぜ、なるほど、なんだろう、という疑問が生じるがここでそこには触れない)。1970年にグループ〈位〉のメンバーだった奥田善巳氏と結婚。ふたりで喫茶店を営んだらしい。1971年、移転した場所で「美術教室アートルーム・トーア」を開設。これを主宰しながら制作と発表活動を続けた。1990年に乳がんの告知を受け、手術以外の治療法を求めて国内各地、ロスアンジェルスに複数の病院を訪ね、ロスアンジェルスの病院で治療を受けながら制作に励んだ。が、1994年神戸の病院で死去。55歳は若すぎる。
展覧会は三つの章で構成されていた。
雨模様の寒い日、「谷川さんの家」の方へ行ってみた
さむい、さむい、と言っているうちに、詩人・荒川洋治氏の「◯◯◯◯◯はさむい」というあの有名なフレーズを思い出したのだが、「◯◯◯◯◯」のところをどうしても思い出せない。こんなはずはない、と思うのだが思い出せない。
いつか古本屋で激安で買った『荒川洋治全詩集』を探し出して、さらにその中の『水駅』のところを探すと、あった。
「◯◯◯◯◯」には「口語の時代」と入る。
「口語の時代はさむい」。
「見附のみどりに」という詩のおしまいのほうに出てくる。
こうだ。
見附のみどりに
まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる
はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ
草は高くでゆれている
妹は
濠ばたの
きよらかなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉先のかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉陰をしばし
打つ
かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向かう肌の押しが
さやかに効いた草のみちだけは
うすくついている
夢を見ればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た
いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。