藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

最新コラム
2024-07-10
藤村克裕雑記帳262

小林嵯峨舞踏公演『幻の字の子供』

 「小林嵯峨舞踏公演『幻の字の子供』」を見た。7月6日、中野・テルプシコール。
 暑すぎる日だった。冷房の効いた会場に入って席を定め、ホッ、としていると、私の前の列の女性が、スマートホンで何やら熱心に調べていた。その女性は、やがて、隣の友人らしき人にスマートホンの画面を示しながら、やがて雷雨になる、ほら、雷雲がすぐそこまで近づいている、と言っていた。やがてその通りになった。外に激しい雷鳴が轟いているのが、会場にもかすかに聞こえてきたのである。
 舞台、というか、踊りが行われる(はずの)スペースには、シンプルな“舞台装置”が仕込まれていた。
 観客から見て左側(いわゆる“下手”)に人の膝ほどの高さに台が組まれ、その上に畳が一枚敷かれている。畳の手前のヘリにはやはり畳一枚ほどの大きさの、おそらくはアクリル板であろう、透明な板が垂直に立てられている。アクリル板の奥=畳の上に、清酒・剣菱の一升瓶が置かれている。畳の向かって左側と奥には蚊帳が、おそらくそれぞれ一張ずつ、都合二張、四隅で吊るされ、結果、中程で折られた姿になって上から吊られている。
 観客から見て右側(いわゆる“上手”)奥の壁と床には、幅70〜80センチほどの細長いグレイの布の一端が壁の上方に留められ、そこから床へ下がり、そのまま床にのびて、畳半分ほどのところで終わっている(そのさらに向かって右側奥にはガラス製の金魚鉢が置かれていたようだ)。
 今日は予約客で満席なのだがまだ数名が到着していない、もう少し待ちたい、ということで、開演が少し遅れた。客席では、顔見知り同士の話し声がにぎやかだった。
 やがて、会場が真っ暗になり、観客のおしゃべりは止み、空気が張り詰めた。
 しばらくして、天井からのライトひとつが少しずつ明るさを増した。そのライトが照らす先には、髪の毛を頭の形にぴたりと押さえ込んだ帽子のようなものをかぶって、ベージュのドレス姿の、思いがけないほど若々しい二の腕をした女性の踊り手が床に座っていた。私は不覚にも、その踊り手が、この日の主役=小林嵯峨氏その人である、とは思わなかった。なにせ、私は、小林嵯峨という名高い踊り手の踊りを、じつは、この日初めて見るのである。小林嵯峨氏の姿はこれまで何ヵ所かで遠くから見知ってはいたし、映像や写真図版などでも知ってはいたが、今、目の前にいる人は、それまで私が知っている小林嵯峨氏とはまるで違う人に見えた。
 やがて腕をわずかに動かし始めた時、ただちにこの踊り手が只者ではないことは明らかになり、目の前の人は、小林嵯峨氏その人だ、と確信したのである。
 腕、上体、腰、脚、首、顔、、、は互いに無関係に、滑らかに、しかしゆっくりと動き、一つの意味には決して収斂しない。やがて、小林嵯峨氏は立ち上がる。立ち上がる動きは滑らか、というか力強くて年齢を全く感じさせない。そして、すっくと立ったままでいる。、、、ずっと音がない。観客は固唾を飲んでいる。踊りは続く。
 手に指がないことには最初から気づいていた。正確には指がないのではなく、両の手はストッキングのような素材の袋状のもので覆われているのだ。ゆえに、手、というよりも、ヒレ、のようにも見える。足も同様、こちらはおそらくはストッキングで覆われていてヒレのように見える。二の腕が若々しく見えたのも、やはりストッキングのような素材で上半身が手首まで覆われていたからだ、と分かってくる。皮膚とその素材との間にはわずかな空隙があって互いがピッタリと貼り付いてはいない。そうしたある種の異形さが形作られている。
 立ってからの踊りが続いていく。口を開けて黒い空洞をつくり、その中に真っ赤な舌をわずかに見せたりもする。座っての踊りも続く。当たり前のことだが、じつに巧みな動き=踊りが続いていく。
 下手にしつらえられている畳の敷かれた台の角に移動して、奥に向かって正座し、そこに置かれていた赤い着物を纏い始め、着物の蔭でベージュのドレスなどをすべて脱ぎ捨てている(はずだ)。前とうしろとを反対に着た着物を整え、“帽子”をとって髪をふりほどき、後頭部に白い仮面を付ける。立ち上がって、そのまま背中で踊リ始める。からだの前と後ろとを反転させてしまっているのだ(着物を後ろ向きに着た理由でもある)。会場を満たす音楽(「アランフェス協奏曲」だったか?)とともにしばらく踊る。体を前にせり出させて(じつは、仰向けにのけぞって)の踊りには踊り手のからだの強さに驚かされる。やがて、着物の裾を持ち上げて、丸く膨らんだお腹(じつはお尻)をむき出しにする。本当はお尻なのに、太ったお腹のようにも、孕んだお腹にも見える。仮面の女とお尻の持ち主との交合のようにも見えたりもする。
 やがて仮面を取り、本来の人間の姿に戻って(反転した前後をもとに戻して)、とはいえ、髪は乱れ、逆立ち、着物の前後が逆さまになっているのだから、異様な姿ではあるのだが、その姿で踊ったあと、スイッといかにも軽々と畳に上がり、そこに腰を下ろしながら踊る。畳の上の一升瓶に手を伸ばし、中の酒を口に含んで、透明な板に向けて、プーッ! と“霧吹き”を行なう。板にしたたる生々しい形状。床に降りて、蚊帳の背後に姿を消していく。会場が暗くなる。
 再び少しずつ明るくなると、そこには、長くて形の良い両の脚が逆さまに、Vの字になって、なかば中空に浮き上がっているような姿で見えてくる。つまりは、仰向けに寝て足と腰とを天空に向けて思いっきり高くしている浅黒い裸の男性の踊り手(滝田高之氏)がいるのだ。男は次第に、というか、きわめてゆっくりと、後転をし始めるのだが、両の足のあいだに枕状の紫色の塊をそなえていて、しだいにその紫色の塊が股の間にあらわになり、その塊の下に曲げた足が組まれていく。その姿は、枕のような塊が頭部、足が腕、腕が足に変じて、つまり、人間の通常の上下が逆さまになって、そこに座っているように見えてくる。こうしたゆっくりとした動きは、この男性の踊り手に大変な負担を伴わせているだろう。やがて体勢は崩れていくが、しかし、持ち直そうとし、床に倒れ落ちて激しい音を立てたりもしながら踊りは続く。
 暗転後、こんどは、黒いズボンで上半身裸の小林嵯峨氏が登場し直立して佇めば、そこに、下手手前から黒づくめの服装、顔半分が失われた(仮面で覆われた)女性(真鍋淳子氏)が現れて、お腹から胸、さらに首へと、からだの正中線に幅広の真っ赤な“線”をローラーで引いて退場する。小林嵯峨氏の方は、音楽とともに、時にニワトリになったりして、コッ、コッ、、、と踊ったりなどする。暗転。
 赤い“線”はそのままに、上に黒いタンプトップを着た小林嵯峨氏が登場し、踊り、さらには黒いドレスに着替え、麦わら製の(?)パナマ帽をかぶって登場し、踊って、チャーミングな笑みを見せて終わる。

 なんと、なさけないことに、これを書きながらいろいろ思い出そうとしても、すでに多くを忘れてしまっている。
 「アランフェス協奏曲」、「イエスタディ」、「アンドアイラブハー」、「アメイジンググレース」などの曲が、おそらくは加工されているのだろう、独特のテクスチャーで流れ、時に空襲で爆弾が投下される音やミサイルが飛来する音などに変じていくのだが、それがいったいどの場面でどう流れていたのか、その時小林嵯峨氏はどんな踊りをしていたのか、照明はどうだったのか、壁に投映された映像のこと、など、そういう本来「一体」であったことが、曖昧にしか思い出せない。
 そんな状態でこれを書いていることを白状しておくが、おそらくは七つの“章”で構成されていただろうこの作品は、最初の“章”の完全に無音の踊りを含めて、若き小林嵯峨氏が土方巽のもとで過ごしためくるめく日々の中で体験し体得したものの集大成なのではないか、とたびたび思わせられた。
 踊りの終了後、休憩になって、そのあいだに、額装されたさまざまな写真や、雑誌などの資料がお披露目されていた。中にはお父上と共に並んで写った幼き小林嵯峨氏の写真もあったりした。

コラムINDEX

ヴィム・ヴェンダースの映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』と福田尚代氏の個展のこと
2024-06-28
 いつだったか、家人が、こんどキーファーの映画をやるみたいだよ、と言った。それは楽しみだねえ、と応じていたが、いよいよ「新宿武蔵野館」に見にきたのである。6月27日、木曜日、薄曇り。日比谷に行けば3Dだ、というのだが、3Dでの鑑賞のためにはメガネ代が別に必要だ、と知って、2Dで十分でしょ、とケチったのである。
 アンゼルム・キーファーをいつごろ知ったのか、記憶が定かではないが、知った時には、当たり前だが、彼はすでに大スターであった。
 こともあろうに具象的な形状を平気で描きこんでしまう「ニューペインティング」とか「新表現主義」とかいう“傾向”が海外から一気に襲来して席巻し、ミニマルアートやコンセプチュアルアートという“傾向”を軸に懸命に学んできた世代の私(ども)としては、これは一体なにが起こっているのか、と目の前の事態に、ワケというものが分からず、こんなものはただの“揺り戻し”だ、と強がっていたのだが(正直、今でもそんな気持ちが拭えない)、キーファーはその代表選手のひとり、というか、代表選手中の代表選手、とりわけ“危ない”気配を漂わせていた。
 そんな頃、ある友人の好意で、都内のある場所に、おそらくは“秘密裏に”保管されていた(であろう)キーファーの複数の作品をこっそり見せてもらいに行ったことがあった。西武美術館での「キーファー展」以前のことだ。
 その時、キーファーの作品の実物を初めて見たが、どれも呆れるほど大きな作品で、私が日頃取り組んできた“傾向”とはまるで違う作品だった。なによりも、海やら地面やらが堂々と描かれているし、物理的なサイズがむっちゃ大きくて、圧倒的な物量で、そのケタというものがまるで違っていたのである。わたしは、へえ、、、とそれっきり言葉がなかった。であるからして、西武美術館での「キーファー展」の印象は比較的薄い。
 その後のことは省略するが、去年だったか、イタリアはベネツィアのあの「総督邸」で「キーファー展」がある、という情報が伝わってきて、ひえーっ、チントレットの大壁画があるあそこでやるの? そういえば、あそこの牢屋の陰惨さにはびっくりしたなあ、などと、そのうち忘れていたら、昔、観光で訪れたあれらの豪華すぎる大きな部屋(たち)の、床から天井まで、巨大なキーファーの作品がびっしり、文字通りびっしり、びっしり展示されている写真だったかをどこかで見て、ひえーっ、ますます凄まじいなあ、と思っていたのである。そしたら今度は、京都・二条城で「キーファー展」をやる、というではないか。来年(2025年)の予定らしいが、行けるかな。廊下のウグイスばりの音を効果音とかに使ったりして。なんて、、、。
 で、ヴェンダースの映画、である。
 結構な見応えだった。
 なんといっても、映し出される仕事場がでかい。でかすぎる。
 そのでかすぎる仕事場に、これまたでかすぎる作品がびっしり並んでいるのである。それらは制作途上なのか、完成しているのか、映画からは判然としないが、ともかくものすごい量であり、大きさである。私がかつて都内某所で見た絵の大きさをはるかに超えている。キーファーはそれらの間を自転車で移動していく。ということは、こともあろうに(?)仕事場はきちんと整理されているのだ。仕事場を仕切るある合理性というか、秩序が見えてくる。死んだ空間ではないのである。
 大きすぎる作品群には、一点一点、それぞれに鉄製の支えがあって、キャスターがついている。なので、人力で移動できる。必要に応じて作業するスペースまで移動させていって、バーナーで焼いたり、絵の具で描画したり、溶かした鉛を滴らせたり、、、と描画しているのだ。
 たとえば、バーナーで、画面に貼り付けた藁を焼く時には、当然ながら激しく炎が立って、画面横と画面背面とにそれぞれ控えているホースを持ったアシスタントが、キーファーの指示に従って、焼きすぎないように水をかける。作品はもちろん、床もビショビショだ。後片付けの場面はでてこない。
 絵の具での描画もすさまじい。絵の具は大きなバケツに入っていて、それを特製のおそらくはステンレス製であろう、弾力ある長いヘラで、えいっ! とすくって、そのまま画面に叩きつけ、ヘラの先端でゴニョゴニョと描いていく。あらかじめ木炭での素描が施されており、その木炭の黒が混ざって、“調子”を作り出していく。すごい力技だ。
 絵の具はバケツだけにおさめられているのではない。時に画面片隅に映り込む大きなテーブルには白い“山”があった。おそらくは白い絵の具であろう、と見た。同じテーブルには、他にもいくつかの色の“山々”があったし、すぐとなりのテーブルには絵の具の缶が並んでいた。つまり、大きなテーブルがそのまま“パレット”になっているのである。もちろんテーブルにもキャスターがついている。
 作品の上部の描画のためには、本格的な昇降機を使っていて、なるほど、と思いながらも呆れてしまった。キーファー自ら運転して絵の前までやってきて、そのまま上に上がって描画を始め、先に述べたように描画を進めていく。
 彼の作品に頻繁に登場する鉛。鉛を溶かすためのちゃんとした炉があって、その炉は、水平に置かれた絵の必要な領域の上まで移動できて、キーファーの手でそのまま画面上に注ぎ込むことができる。アシスタントが、もう少し下げましょうか、そうすればピチピチ跳ねることがなくなりますから、とか言うと、キーファーは、いや、跳ねるのがいいのだ、とか言う。結果、溶けた鉛の飛沫がピチピチ跳ねて、キーファーも思わず後退りしたりする。そうしたディテールが面白い。
 また、作品のための素材が、巨大すぎる棚とそこに並んだ金属製の箱にきちんと整理されている。さすが、である。枯れた植物、得体の知れないオブジェ、引き出しにおさめられた無数の写真、、、。一枚の風景写真を無造作につまみあげるキーファー。
 そして、図書館のような書庫。書庫のような作品=鉛の書物群、パウル・ツェランの言葉、、、。
 整備された展示空間は、そのまま制作の一部をなしてもいる。驚くべきことだ。
 こうした、南仏バルジャックでのキーファーの“日常”が軸になって、幼少期のキーファー、青年期のキーファーのエピソードが、幼少期をヴェンダースの孫甥(聞きなれない言葉だが、兄弟姉妹の孫=男性を指す言葉だという)が演じ、青年期をなんとキーファーの息子が演じることで挿入されていく。さらにそれらを踏まえて、最初期のキーファーの作品写真やインタビューなどの資料映像も挿入されて、キーファーの絶え間ない営みが多層的に描き出されていく。じつに手際がいい。さすが、である。
 キーファーが生まれ育った館であろうか、ヴェンダースの孫甥(幼少期のキーファー)が、その内部の装飾を眺めながら巡っていくシーンは、彼の出自さえ想像させ、咲き誇るひまわりの下で寝そべってひまわり越しに空を仰ぐ姿は、彼の作品にたびたび登場するひまわりの“出どころ”を示しているかのようであった。
 ひまわり、といえばゴッホだが、高校生だったかのキーファーが多数の応募者の中から選出された奨学制度でゴッホの歩いた経路を自らたどってレポートにまとめ、ヨーロッパ中の最優秀賞をもらった、というエピソードを私は全く知らなかったし、そこで紹介される高校生のキーファーによるゴッホ風の風景デッサンや、それ以前、幼少期の絵にも驚かされた。 
 青年期のキーファーについては、雪景色の畑に踏み込んで写真撮影するシーンや、最初期のドイツ山中の仕事場(木造の倉庫のような建物。初期の絵に度々登場している)でボイスに手紙を書き、ボイスに見てもらうために車にたくさんの絵を積み込んでボイスの元へと出かけていくシーンが印象的だ。白の中に真っ黒い細い線が伸びてボイスのところに続いていく。
 こうして映画のシーンを次々に思い出しながら書いて(打ち込んで)いくとキリがない。ネタバレにもなってしまうので、この辺にしておくが、ぜひ、ご覧になられるとよい。
 先に述べたベネツィアでの「キーファー展」会場で撮影したシーンさえもあって(チントレットの壁画も登場する)、心憎い映画になっていた。さすが、と言うべきか。
 それにしても、すさまじい仕事への集中度である。まちがいなく、全てを制作に捧げてきているのだ。
「シルバーデー」に東京都現代美術館に行った
2024-06-25
 ある方が、毎月第三水曜日は「シルバーデー」ということになっていて東京都現代美術館、東京都写真美術館、東京都庭園美術館はどの展覧会も65歳以上は無料ですよ、とSNSに投稿していた。で、東京都現代美術館に行ってみたのである。6月19日=6月の第三水曜日。晴れ。
 私は、自慢ではないが(自慢にもならないが)、とっくに65歳を過ぎておりハゲである。わずかに残された頭髪はとっくに“シルバー”なので、チケット売り場の窓口のお姉さんに、運転免許証(ずっとペーパー・ドライバーの“ゴールド”カード)を示すと、お姉さんは快くチケットを差し出しながら、これですべての展示をご覧いただけます、とにこやかに言った。「シルバーデー」はほんとだった。とっても嬉しかった。
カール・アンドレ展
2024-06-04
 気がつけば、5月も終わってしまっていた。
 気がつけば、と書いた(打ち込んだ)が、何かに熱中していて、あっ! という間に時間が過ぎ去っていった、というのではなかった。あれもやらねば、これもやらねば、と気持ちだけはせわしないが、実際には、何ひとつやれていないままで、あっ! という間に時間が過ぎていくのであった。これは、明らかに老化の現れだろう。いよいよ、やばいぞ。
 拙宅の耐震補強工事は6月半ばから始まる予定だった。しかし、やむを得ぬ都合で7月半ばからになった。それを伝えられた時は本当にガッカリした。加えて、暑さの中での工事。職人さんたちも大変だろうが、私どもも大変である。が、弱音は吐けない。頑張る。
 住みながらの工事を少しでも円滑に進めてもらうために、家具をはじめ、こまごまとした物品の移動作業や廃棄作業が続いている。私の仕事場は、すでに荷物でいっぱいだが、このあとも大物をいくつも“収納”しなければならない。私の仕事場にも工事を必要とする箇所があるので、その周辺はカラッポにしておかねばならない。仕事場としての“機能”だって、気持ちだけは保っておきたい。これらの事柄をすべて満たすのはかなり難しくて、じつに悩ましい。作業はノロノロとしか進まない。知力、体力の衰えが露呈する。無理が効かない。
 そんなとき、思いがけず、大量の荷物の隙間に、木下直之『私の城下町 天守閣からみえる戦後の日本』(筑摩書房、2007年)が顔を覗かせていた。
 思わず取り出して、これ面白かったなあ、この人の本はどれも面白いよなあ、とつい読み始めてしまった。例によって、面白かったという記憶はあっても、中身を忘れてしまっていたのである。
 話は、著者・木下氏の祖父母を木下氏の父親が1953年に撮った写真のことから始まる。その写真は、木下氏が育った部屋にずっと懸けられていたという。日比谷の濠の前での写真である。背景の濠のさらに向こうに第一生命館が見えている。この写真が撮影された一年前、つまり1952年には、まだ、この建物の屋上には星条旗が翻っていた。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効まで、日本は連合国軍の占領下だったのである。第一生命館にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が置かれていた。日本の独立回復の日=サンフランシスコ講和条約発効の日=4月28日から星条旗が翻ることはなくなり、その三日後の5月1日には「血のメーデー事件」が起こって、写真の祖父母が立っていたあたりも騒然としていた。‥‥と巧みに話は続いていく。
 そもそも、「皇居」はもともと、「江戸城」ではなく、「御城」(おしろ)と呼ばれていたらしい。その証拠に、江戸時代のどの地図にも「御城」と書かれているという。「江戸城」というのは現代の呼び名だったのである。江戸が「東京」となって「東京城」、やがて「皇城」となったらしい。そして「皇居」となったわけだが、つまり、もともと「御城」だったので、『わたしの城下町』という本が、自らの祖父母の姿をとどめた一枚の写真の話から始まった理由が、なるほど、このあたりで明らかになる。
 この本は、こうして皇居や皇居周辺をめぐる話から始まって、小田原、熱海、、、と次第に南下して、首里城に至る。
 読んだのは二度目だったが、今回も満足した。この本に従って、せめて皇居周辺とかを散歩してみるのもいいかもしれない。
 数日後、東京駅に降り立った。皇居前広場を例えば銅像を巡りながら散歩しようというのではない。目指すは八重洲口③バス停。このバス停のことは『わたしの城下町』には出てこない。私は、千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」まで、③バス停からバスに乗って行くつもりだったのだ。「カール・アンドレ 彫刻と詩、その間」展見物である。
 時間通りにやってきたバスに乗り込み、バスは順調に走り、その間、年配のご婦人の四人組が果てしなくおしゃべりを続け、「DIC川村記念美術館」で私はバスを降りた。ほとんど全ての人も降りた。四人組のご婦人たちも降りた。
ボヤボヤしていたら1ヶ月経ってしまった
2024-05-07
 ひと月ほど前、「中平卓馬 火|氾濫」展の図録が宅配便で届いた。東京国立近代美術館のミュージアムショップで“購入”した時に予定されていた日から随分遅れての到着だった。
 ちょうど出かけるところだったが、図録の到着を待ち侘びていたので、さっそく開梱してページを繰り、大変な不満を感じた。どの図版も小さいうえにボケているではないか! と思ったのである。
 発行=配達がこんなに遅くなって、数日後には展覧会が終わってしまう、待たせに待たせたあげく、こんなボケて小さな図版を並べた図録だなんて、これはいったいどういうことだ? プンプン! と家人に八つ当たりして家を出たが、家人にはなんの関係もなかったのだから申し訳なかった。
 数日後、こんどはたっぷり時間をとって、当該図録を開き、じっくり1ページ1ページ見ていったら、たしかに図版は小さいが、雑誌掲載時の見開きの状態できちんと掲載してある。すでに出版されている本、雑誌発表時の写真図版からの複写で構成した『都市 風景 図鑑 中平卓馬』(月曜社 2011年)は600ページを超える分厚さで大迫力であるが、そこでは写真図版以外の“情報”は割愛されている。そこが今回の図録とは大きく違っている。東京国立近代美術館(以下、近美と表記)での展示では、小さくプリントアウトされて展示されたり、映像化したものが展示されていたりしてはいたが、そういうものであっても見開きのとなりの記事や広告など、掲載時の状況を示しながらしっかり収録してある。おお、とってもいいではないか、と感じ入った。実際の展示を補って余りある、と思ったほどである。時々手に取って眺めて、その都度同じ感想を持つ。それを家人に言うと、ごくごく短期間のうちにまるで正反対の感想になってしまったのは、どゆこと? となじるような口調で言われてしまった。
 どうやら、配達された時にはメガネなしで見ていたらしい。その後は老眼鏡越しに見ている。
 ボケているのは図版ではなく、私の方だったのである(とオチがついたはずだが、話はここで終わらない)。
国立西洋美術館に忘れて傘をとりに行った 4
2024-04-10
 故辰野登恵子氏の作品群とは不意に出くわした格好になった。というか、私は彼女の油彩作品に一種唐突で実に異様な感じを覚えて、そのことに自分で驚いたのである。彼女の油彩作品からこうした印象を得たのは初めてだったので動揺さえした。実に古典的、というか、真っ当な絵画、というか、彼女の営為の意味のようなものが、この展覧会での“不意”ともいえる“出くわし”によってやっと腑に落ちたような気がしたのである。学部学生の頃、助手だった「辰野さん」からリトのプレス機の前で思いがけず強く叱られてから、彼女の作品はずっと、亡くなった後も見てきたつもりなのに、やっと今頃。なるほど、私は実に鈍いのである。
 ところで、辰野氏は今回の参加作家の中で唯一の故人。あまたいる故人の中で、なぜ、国立西洋美術館は彼女ひとりを今回「招き入れ」たのか、その理由が判然としない。“図録”=“インタビュー集・論文集”には、おそらくは新藤氏の文であろう、こうある。
 「未知なる布置を求めて」との「章」の展示をポロックやモネ、ドニ、シニャック、ルノアールの作品と共に成す辰野登恵子氏、梅津庸一氏、杉戸洋氏、坂本夏子氏についての文章。この三人は、「絵画を編成する造形的なエレメントをみずから発見/発明しつつ、絶えず組みかえることで一律のスタイルに自作を固定することを避けつつ、作品群を一つずつ実験のフィールドにしてきた」作家たちだ、とまず書いている。
 そして、辰野氏についてはこうだ。「抽象表現主義を超えることをめざしていたといえる辰野の絵画には脱グリッド化されたタイル状の形態や花模様の不規則な繰り返し、それらと多極的にせめぎあう色面や筆触、その他の造形要素の一回ごとに異なる布置の探求がある」。
 うーん、、、そうなのか、、、布置か、、、布置と言ってしまえるのか、、、。
 ともかく、辰野氏の油彩作品から、実に異様な感じをこの展覧会で覚えたこと、そのことに分け入る力を私は今持たないことを白状し、異様な感じ、というメモだけはしておこう。

 また、“図録”=“インタビュー集・論文集”のなかで、新藤氏は、「招き入れ」た「作家さん」は「上野とのかかわりを持たれていたり、問いを投げかけてみたいと思わせてくれる論客の顔を併せ持つアーティスト」だと発言しているが、ならば、たとえば、中村一美氏や岡崎乾二郎氏や戸谷成雄氏が「招き入れ」られることがなかった理由も知りたいところではある。梅津氏はSNS投稿の中で、この展覧会への出品参加を求めに新藤氏が岡崎乾二郎氏を訪ねたところ、激しく叱責され、参加を断られたので、岡崎氏の「枠」を自分(梅津氏)が埋めることになった、と書いていた。ほんとだろうか。ま、どうでもいいけど。
国立西洋美術館に忘れた傘をとりに行ってきた 3
2024-04-10
 、、、と、出品者一人一人をたどってメモしていくとキリというものがない。以下、いささか雑だが、印象に残った作品をメモしていきたい。

 ロダンの「青銅時代」と「考える人」とを横倒しにした作品を中心にした小田原のどか氏の作品は、SNSからの情報で想像していたよりずっと面白かった。やはり作品は実際に自分の目で現物を見なければ分からない。
 床に敷き詰めた赤いパンチカーペットの色の効果が絶大で、そこに黒々と転がっていたロダンは、美術予備校で石膏像を横倒しにしてモチーフとし、学生にデッサンさせ、「形」の問題を問いかけるような場合に比せば、遥かに面白く見えた。中が空洞ということでは同じでも、石膏像とブロンズ像との違いがそうさせているだろうし、本来の像を腕や胸で切り取って教材にしてきた石膏像と作品全体をきっちり鋳造してあるロダンのブロンズ像との違いが大きいだろう。そして、私(たち)は意外にロダンの彫刻作品ときちんと向き合う機会を持ってこなかったのかもしれない。
 いつだったか、何かの展覧会を見に行った静岡県立美術館で、ロダン館というところに迷い込んで、たくさんのロダンの大きな(実寸の?)ブロンズ像に出くわしてびっくり仰天したことがある。あまりにびっくして、その時はじめてロダン作品をじっくり見た。ひとつひとつを丹念に見ていくと、気持ちが悪くなるくらいだった。ロダンは激しすぎて遠慮会釈というものがない。驚くべき作品群だ、と思った。日頃、ロダンについての情報はたくさん知っていても、情報を知りすぎていて、実際にロダン彫刻の現物を前にしてもじっくり見ることはなかった、ということにその時に気がついた。恥ずかしいことである。
 小田原氏のこの作品で、作品として無理やり横たえられたロダンの彫刻をまたじっくり見ることになった。ブロンズ像を台座に固定しておく普段は見えない“仕掛け”も剥き出しになっているから、そんなところにも目が向いた。さりげなく展示されていたロダン彫刻の台座を、台座だけの姿でしげしげと見る事にもなった。普通はあり得ない状況でこうしたありさまに反応している自分自身にも意識が向いたりする。そういった意味でも、さまざまな覚醒を強いてくる面白さがある。
 ただし、日本=地震国の国立美術館のコレクションであるロダン作品、というところから、大地震が襲ってきてロダンの彫刻も横倒しになったとしたら(実際に関東大震災の時にはロダンの彫刻は倒れて壊れてしまったそうだ)、、、みたいな“設定”を、巨大で真っ赤な五輪の塔をそそり立たせた一方で、あたかもその五輪の塔が崩れて床に散らばったかのようなインスタレーションとして作品に組み込んだりするのは陳腐で、説明の域を出ていない、と思う。
 さらに、横倒し=水平、そこから「水平社」、転倒=転向、これらからの西光万吉という人物の作品の提示。ここからさらに、さまざまな問題へと繋いでいこうとしている様子も、彼女の日頃の真摯な問題意識や丹念な調査活動とは別に、語呂合わせや連想に興じているようにも感じさせられてしまう。彼女の執筆活動、出版活動の成果品である書物群を観客が手に取れるかたちで展示していたのも、それら一冊一冊は確かに興味深いが、この展示に同居させていることには若干の違和感も持った。
国立西洋美術館に傘を忘れて取りに行ってきた 2
2024-04-09
 ぷんぷんしながら会場に入れば、大きくて妙な立体が立ちはだかっていた。なんじゃらホイ。杉戸洋氏の作品だという。この作品の何が面白いのか、掲げられている説明文を読んで改めて“鑑賞”しても、なんの感興も覚えない。説明文などには西洋美術館創設にまつわるいくつかの情報と資料・作品が示されていた。コルビュジエの絵もあった。あったが、ついさっき出鼻をくじかれて、最初に出くわす作品がこれかい、とますます気持ちがささくれ立っていく。

 次に、中林忠良氏の銅版画の作品群が並んでいる。中林氏は私が学生だった頃、そこの一番若い専任教員(あるいは非常勤の「助手長」という教員?)だった。が、版画研究室を選ばなかった私は、一方的にお顔を知っているだけである。中林氏の作品群の合間にゴヤやブレダンなどの銅版画が紛れ込んでいる。
 ブレダンのことは、学生時代に故駒井哲郎氏や故安東次男氏の文章で知った。いつの間にか、この美術館の常設展示、というか所蔵品展で見ることができるようになって、いい物を入手してくれて、じっくり見させてくれて、この美術館は素晴らしい、と思ってきた。ブレダンとはこれまでも何度かここでじっくりまみえることができて、その都度堪能させられてきた。何度見ても、どれを見ても飽きない。今回もやはり見応えがある。見入っているうちにご機嫌が治ってしまった。正直なところ、中林氏の作品が霞んでいるくらいだ。駒井哲郎氏の「束の間の幻想」もあった。これは中林氏の所蔵、とのキャプション。中林氏は師を心から尊敬している(らしい)。

国立西洋美術館に傘を忘れてとりに行ってきた
2024-04-08
長い間、「雑記帳」をサボってしまった。まず、冒頭で言い訳である。

 拙宅の耐震補強工事の計画のことを以前ここに少し書いた(打ち込んだ)。その工事がいよいよ6月から始まる(はずである)。
 拙宅は、義父母が終戦後に建てた。増改築を重ね、木造二階建ての古くていささか変則的な家屋になって今に至っている。その一番古いところを中心に、今、やっと、補強しようとしている。古いところを補強するとバランス的に他の箇所の補強が必要になる(らしい)。結果、かなり大掛かりな工事になるようだ。
 工事は私どもが建物に住みながら行なう。工事の間はどこかに仮住まいする、なんてことができる身分ではないからである。
 まずは一階(私どもは二階で暮らしている)。真っ先に一階の床全部を取り払う(らしい)。なので、工事の開始までに、一階の荷物は全て、二階のどこかか一階にある私の仕事場や家人の仕事場に移動しておかねばならない。私の仕事場の一部も工事するのでそこも空っぽにしなければならない。そのためには、その移動先を片付けてスペースを作っておかねばならない。その片付けのためには、別のスペースを片付けなければならない、、、。えーん。
 一階の工事が終わったら二階の工事である。その時は、工事をする二階の場所におかれた荷物を、工事が終わった一階、あるいは二階の工事しない場所に移動しなければならない。えーん。
 つまり荷物の移動で毎日が過ぎていく。加えて、経費節約のために、壁や天井の塗装は自分ですることに決めた。できるかな。脚立から落ちないかな。これもやはり心配で、落ち着かない。
 そんなこんなで、つい「雑記帳」を後回しにして、結果、サボってしまっていたわけである。
 (言い訳はここまで。)
「《没後38年 土方巽を語ること XⅢ」のこと
2024-01-29
 「慶應義塾大学アート・センター」が誕生したのは1993年だった、というからもう30年以上の歴史がある。1998年4月、この「慶應義塾大学アート・センター」に、「土方巽記念資料館」(アスベスト館/東京目黒)から、土方巽に関わる多数の一次資料が寄託されたのをきっかけに、同センター内に「土方巽アーカイヴ」が設けられて現在に至っている。このアート・センター=「土方巽アーカイヴ」では、土方巽に関する一次資料はもちろんのこと、舞踏関係の多くの資料の収集・保管・管理・調査・研究を行い、その成果を公開するなどの活動を行なってきている。
 同センターと同アーカイブではそうした活動の一環として、1月21日の土方巽の命日に「土方巽を語ること」という催しの開催を毎年ずっと継続してきた。第一回は2010年。今年(2024年)で13回目となった(コロナで開催を見送った年もあったようである)。毎回、土方巽にゆかりのあるゲストが招かれてきたこともあって、私もこの催しにずっと関心を持ってはきたが、YouTubeにアップされた記録映像を盗み見するにとどまり、実際の催しには参加したことがなかった。で、今回はじめて行ってみたのである。慶應義塾大学・三田校舎・東館6階。今回のゲストは詩人の吉増剛造氏。無料。

 資料展示もある、というので、少し早めに会場に入ったが、すでに幾人かの舞踏の関係者がいて、緊張してしまった。玉野黄市氏・弘子氏ご夫妻、三浦一壮氏などなど。とはいえ、これらの人々を含めて私が直接知っている人はひとりふたり。ほとんどの方々は私が一方的にお顔とお名前を知っているだけのことである。だから、緊張するのはヘンなのだ。が、そうなってしまう私の性癖は如何ともしがたい。以前、いろいろお世話になったことのある志賀信夫氏にだけ簡単なご挨拶をした。
 その後、壁に沿って置かれたテーブル上の各種の資料の展示をざっと見て、さて、と会場を見渡すと、記録映像撮影のためにいいところにカメラが据えられていたので、そのそばの椅子に座って会のはじまりを待った。
 人々が続々と集まってくる。顔見知り同士であろう、互いに挨拶や雑談をしたりしていて賑やかだったが、そのうち、準備されていた椅子だけでは到底足りないことがわかってきて、椅子の補充が始まり、マイクで係が、すみません、全体で少しずつ前に移動しながらあいだを詰めていただけますか? などと、まるで70年代のあの唐十郎の「赤テント」で、こちらは肉声だったが、申し訳ありません、皆さん、あと10センチずつ前へ詰めてください、はい、ありがとうございます、えーと、あの、大変恐縮です、すみません皆さん、あともう5センチずつ前へお願いします、ありがとうございます、すみません、あと3センチ、、、2センチ、、、1センチ、、、もうあと気持ちだけでも、、、などと実に巧みに、いつの間にかぎゅうぎゅう詰めにされていって長蛇の列の全ての観客がテント内に収まり、結果、自分の膝がどこに行ったかもわからなくなるくらい観客同士が押し合いへし合い密着して、今か今か、とはじまりを待ち、はじまった、となれば夢中で拍手し、おう、唐十郎が登場した、おう、李麗仙が登場した、、、とその度に大拍手と掛け声、、、あ、違う。ここは慶應義塾大学・三田校舎。その証拠に、周辺の人々と密着するなんてことはなかった。なかったが、ともかく主催者が想定していた以上に催しが盛況であるのは大変に喜ばしいのである。
 この間に吉増剛造氏が到着して(あ、違う。椅子の補充などは第一部終了後の休憩時間だった。吉増氏は、そんなザワザワした時に到着したのではなかったことを思い出したが、修正がめんどくさいのでこのまま進む)、なんと、会場の壁の一部がクルリと回転して“控えの部屋”に案内されていくのであった。吉増氏はそこで少しの時間打ち合わせをしていたようだったが、再び会場に戻り、壁際の一つの椅子に座ると、また“控えの部屋へと消えていく。これを二度三度繰り返して、やがて、その椅子でそっと自分の気配を消しているかのようにしていた。
 開演時間になって、まずは第一部。森下隆氏から「土方巽アーカイヴ」の1年間の活動報告、というか、土方巽についての研究成果の報告がなされた。
 日吉校での上杉満代氏による公演(=『命』)の報告が上杉氏のスピーチを交えてなされ、やがて玉野黄市氏・弘子氏ご夫妻が紹介されて、弘子夫人がマイクを持って、この前日まで1ヶ月半ほど屋久島に滞在していたこと、そこで感じたことを皮切りに、今回の「土方巽を語ること XⅢ」のチラシに用いられた黒田康雄氏の写真についてや、今後のことなどを語られた(お二人はこの次の日(1月22日)に現在居住なさっているカリフォルニア州バークレーに戻られたようである)。
 その後、巨大なモニタに、秋田工業高校でラグビーをやっていた頃の土方巽(米山九日生=よねやまくにお)の写真や、空襲で焼け野原になった東京の写真、19歳で上京して住んだ「三の橋」の簡易宿泊所を思い出しながら当時からの友人が描いた絵、たびたび夜露に打たれていた当時の有栖川公園の写真、下谷万年町の写真などを次々に映し出しながら、森下氏が説明を加えていく。「ユニークバレエ団」時代の土方巽が浜村美智子のショーダンサーをしていた時の集合写真なども出てきたが、それらのいくつかは、たとえば森下氏編著の『写真集 土方巽 肉体の舞踏誌』(勉誠出版、2014年)などで私もすでに知っていたものであったが、初めて見た資料もたくさん映し出されていた。どうやら森下氏(というか「土方巽アーカイヴ」)の昨年の関心は、上京後の「米山九日生(よねやまくにお)」が「土方巽」になる以前、あるいは「土方巽」になっていく過程、つまり、上京した彼はどこで何をしていたか、というところに集中していたようにも感じられてくる。『疱瘡譚』の連続上映会を、土方巽ゆかりの都内の各所で行ったあの興味深かった催しの狙いもまたそこにあったようにも感じられてくる。『疱瘡譚』の上映は私も阿佐ヶ谷まで見に行った。
 さらにこの1年の間の物故者の紹介があり、天沢退二郎、棚谷文雄、竹村勝彦、ヨネヤマ・ママコ、小島政治、羽月雅人、篠山紀信など各氏についてそれぞれ触れられた。中でも、つい最近亡くなった篠山紀信氏に関わって、1978年のパリでの「間 MA」展に際して、ルーブル前の芝生広場で踊る芦川羊子氏を磯崎新氏、宮脇愛子氏、四谷シモン氏らと共に篠山氏が楽しんでいる姿をとらえた写真が映し出されて印象に残った。また、配布された資料には、つい先日亡くなった福住治夫氏の名もあった。さすが、と言うべきだろう。
 これらが第一部で約一時間(順不同)。
「みちのく いとしい仏たち」展を見た
2024-01-22
 この展覧会のポスターやチラシのインパクトは、かなりのものだ。私も、これ、行ってみよ、と思わされてしまった。が、例によって、つい繰り延べにしてきた。会期はまだ残っているとはいえ、このままではあっという間に終わってしまう。で、頑張ったのだ。1月18日(木)午前に訪れてみた。東京ステーションギャラリー。
 面白かったが、予期せぬ複雑な気持ちを抱えこむことになった。モヤモヤする。

 そのポスターやチラシの中央には、確かに信じがたい形状の木彫の像を正面から捉えた写真が白地の紙にそこだけカラー印刷されている。
 さらに、用紙の右上のヘリに添うようにして、ほぼ“曲尺”状に、黒の角ゴチック体で「みちのく いとしい仏たち」と展覧会タイトルを配している。しかもご丁寧に、「いとしい」の中のふたつの「い」の字は、ふつうにそのまま「い」の字の角ゴチック体を用いず、「し」の字をやや縦長にし、これと「つ」の字を立てた形状とを組み合わせて作った(らしき)「い」の字の“新書体”を用いて、「いとしい」ということを増幅させている。
 さて最初のモヤモヤである。
 それは、このカラー印刷された「いとしい」像は、実は「いとしい仏」の像ではなく「山神」の像だった、と展示を見てから知ることになった、ということであった。
 確かにチラシの裏面には、この像の斜め上から撮った小さな写真図版について、「《山神像》」との極小のフォントでの記載がある。とは言え、この展覧会のタイトルは、「みちのく いとしい神仏たち」とでもしておくべきではなかったか? と私は思ったのだった。こうして、自らの不勉強を尻目に、モヤモヤが始まってしまったのである。
 やがて、展覧会タイトルに「The Beloved Gods and Buddhas of Northeastern Japan」との英文表記が小さく必ず添えられていることに気がついて、これは一体どゆこと? と私はさらにモヤモヤしたのであった。(私のようなモヤモヤ爺さんからのしつこい“クレーム”を封じるためのアリバイ作り?)

 それはそれとして、呆れる形状の「山神」の像である。作品番号は10。江戸時代。岩手県八幡平市=兄川山神社所蔵。一木造。高さ78cm。
 会場では、この「山神」の像の現物とまみえるまでの間、参考図を含めて複数の「神像」や「仏像」と遭遇する構成になっている。そうした構成の根拠を、図録ではこう説明している。

 ・古代中世の日本で神に対する信仰と仏教への帰依が両立していたことはよく知られ、神仏習合、本地垂迹といった概念で説明される。
 ・(東北地方の場合)ホトケとカミどちらが優先したかではなく、聖なる場所にまつられるものは等しくありがたい存在で、場に宿る霊性の顕れと認識していた。
 ・(その例として)十世紀末の青森市の新田遺跡の出土品は当時の信仰状況をフリーズした感があり、仏像とも神像とも断定し難い像と一緒に仏像の手や火焔後背の断片、檜扇さらに多数の斎串が出土していて、習合どころでない様子がうかがえる。

 ゆえに展示冒頭に「ホトケとカミ」というセクションを設けていた、というわけだ。こうした事情が「みちのく」では江戸時代、明治時代まで続いた、と。なるほど、、、。
「アトリエ・トリゴヤ」と「ナミイタ」のことなど、
2024-01-09
 「町田市三輪2036」は、知る人ぞ知るあの「アトリエ・トリゴヤ」の所在地である。
 小田急線・鶴川の駅から鶴見川に沿って歩き、車の行き来が多い通り(調べるのが面倒で、通りの名前がわからない)に行き当たったら右折、どんどん坂を登っていくと、やがて右に神社、そしてさらに坂を上り詰めたあたりの左側に道があるのでそこを左折し、右側を注視しながら少し進めば、下方に異様な佇まいの“建物群”が目に飛び込んでくる。それが、1982年に、多摩美大大学院を終えたばかりの若者たちによって創設された「アトリエ・トリゴヤ」だ。
 “建物群”と書いたが、正確に書けば(打ち込めば)向かって左側の奥に伸びる一棟と、その左側奥の一棟とが「アトリエ・トリゴヤ」である。他の”建物”は、「アトリエ・トリゴヤ」のメンバーとは別の人達が、別の用途・別の目的で使っている。
 「アトリエ・トリゴヤ」という名前から分かるように、もともとここは鶏小屋=養鶏場だった。想像するに、廃業したこの養鶏場を見つけた若き美術家たちが、俺たちのこれからの仕事場はこういうとこがいいんでないかい、と(北海道弁の人がいたかどうかは知らないが)ともかく家主と交渉して、めでたく入居できたのだろう。創立メンバーは、彫刻専攻だった者が三人、絵画専攻だった者が三人だったという。ともかく、彼らにとっては、雨露を凌ぐことができて自由に使える広いスペース、これを確保することが何よりも大事だったのである。
 以来、40年以上の間、多少のメンバーの入れ替わりはありながらも、このスペースは彼らの制作の場として、道具や素材や作品保管の場として使われてきた。創設当時からのコアなメンバーは今も健在で変わらないのだが、近ごろはここに若い人たちが加わって、この共同アトリエの雰囲気にも若干の変化が生じてきていた。
 加えて、創設時からのメンバーの一人(=大村益三氏)のスペースを、一人の若い男性作家が、ここをギャラリーにする、と言って、せっせと片付け始めたのである(もちろん大村氏の了解、協力を得てのことであろう)。さらに、実に楽しそうに床や壁などに手を入れて(コアなメンバーの一人=吉川陽一郎氏の手助けも得ながら)展示スペースとするべく少しずつ整えていったのである。やがて、そのスペースは「ナミイタ=Nami Ita」と名付けられた。
 この「ナミイタ=Nami Ita」の主宰は東間嶺氏。元々は絵画を専攻していたというが、今は写真を撮り、巧みな文章を書く。最近では話題の展覧会のレビューの仕事にも取り組んでいるので、ご存知の方も多いのではないかと思う。東間氏も多摩美出身なので、多摩美で講師だった「トリゴヤ」メンバーの大村益三氏や吉川陽一郎氏、池谷肇氏のある意味では“教え子”である、とも言える。「ナミイタ=Nami Ita」の名は、もちろんこの”建物”の”表皮”であるトタンの“波板”に由来するだろう。
岡崎乾二郎『頭のうえを何かが』(ナナロク社、2023年)を読んだ
2023-12-15
 先週、私が心から尊敬する旧知の先輩作家が、あるグループ展の初日に、ある女性舞踏家と一緒にパフォーマンスを行う、という情報を得て、今回こそは行くぞ! と夕闇の京橋に出かけた(12月4日、『近景・遠景』展、ギャラリー檜B・C)。久しぶりに見たその先輩作家=大串孝二氏の力強いパフォーマンスは、さすが! と言うべきで私は大変満足し、終演後、ごった返す人々をかき分けて、ともかく大串氏にご挨拶だけしてすぐ会場を出た。帰路途中の南天子画廊の前で、おや?! と気付いたのである。これって、岡崎乾二郎氏の展覧会?
 気がつけば階段を登っていて、さらに扉を開けて画廊の中に踏み込んでいた。そこには、岡崎氏が何年か前に(2021年10月30日の夜ということだ)おそらく過労ゆえであろうが脳梗塞を発症し、ともかくは事なきを得たものの、右半身が不随意になってしまって、そのリハビリの過程で描いた絵=彼の言う「ポンチ絵」がたくさん並んでいた。帰りの道筋を少し違えていれば、全く気づかなかった展覧会だった。

 脳梗塞を発症後の岡崎氏について、私は、岡崎氏自身がSNSに投稿する情報以外に知るところがなかった。
 今、ちょっと見てみると、フランスから帰国後に「脳梗塞で倒れ」「現在も入院中です」という岡崎氏の投稿があったのは2022年の2月20日。この時はとてもびっくりさせられた。「まったく右半身が動かない」けれども、「不思議と意識活動は明晰」で「音声入力で原稿を書くこともすぐできることが判明」している、とあって、「今は毎日が、今まで知らなかった自分の体を新たに発見し直す、驚きの日々」であり、「一旦はアーティストとしての活動を諦めはじめてもいましたが、今は全く新しくはじめ直せるという自信が生まれてきました」と書かれていた。
 その後の彼は、トーク、展覧会、著書『絵画の素』(岩波書店)、、、というように以前と変わらない活動ぶりを再開、というか継続して現在に至っている。
 つい先日(11月15日)には、柔らかめの粘土で塊を作り、それを削いで形成したらしき像をとらえた写真を添えて、こんなものをつくりました、というコメントをした彼の投稿があって、それは見ていた。が、正直、これは一体なんじゃらほい、と思っただけで、その投稿の意味について、きちんと考えてみることをしなかった。投稿された写真は、大きな右足の粘土像を捉えたものだったが、「右足」、ここが大事だった。そのことにこの画廊で気付かされることになったのである。
おお、もう12月ではないか!
2023-12-04
 家人が、私のピアノの先生がリサイタルをするそうなんだけど、行く? と言うので、行く行く、と答えた。家人に私の分のチケットも買ってもらって、その先生のリサイタルに行ってきた。
 家人の話に時々出てくる人だが、私は全く知らない人だし、ピアノ・コンサートなどというものには、トン! と縁がない暮らしをしてきた。のみならず、私は、日頃から全く音楽を聴かない。自分で楽器を演奏したり歌を歌うなどもしない。なので、緊張して迎えた当日であった。12月1日。
 最寄りの駅から会場に向かう道筋で、後方から子供たちの賑やかな声がしていることに気がついた。もしかしたら、後ろの子供たちもリサイタルに行くんじゃないか、と思っていたらその通りになった。小学校の低学年くらいの子供たちである。お母さんらしきご婦人たちも一緒だったものの、え? 大丈夫なの? と思ったけど、これが大丈夫だった。子供たちが邪魔をすることは一切なかった。私なんかより遥かに“場慣れ”していて、ピアノ演奏を聴くことが身についていたのである。素晴らしい。
 少し空席があったものの会場はほぼ満員だった。集まった人々は、やはりそれなりの雰囲気を醸し出していて、開演までのあいだ互いに挨拶したり談笑したりしていて、私はますます緊張していった。隣の席の家人も少し緊張している様子だった。ステージにはスタインウェイの大きなピアノが鎮座していた。
 ブザーが鳴り、やがて照明が変化して、いよいよ若い男性のピアニスト=家人の先生が登場したのだが、登場直後にズボンの裾がめくれ上がっていたのに気づいたらしく、あ! と慌てて、一瞬どうしようと逡巡し、そのまま膝を折って手を伸ばし、裾を整えて恥ずかしそうにした。それが会場の緊張感を一気に和らげた。結果、いかにも温かい拍手で迎えることになったのである。もしもあれが演出だとすれば、極めて巧妙な演出だったが、そうではあるまい。
 一曲目、スクリャービンのピアノソナタ第4番。静かに始まり、やがて次第に盛り上がってジャーンと終わっていくのだが、押し付けがましいところは全くなくて、こういう曲を選んだセンスの持ち主であることをとても好ましく感じた。
 二曲目、モーツァルト ピアノソナタ第12番。前の曲に比べると、さすがに古風な印象も否めないが、次第に没入させられていた。
 三曲目、グラナドス 『ゴイェスカス』より3曲。愛の言葉、嘆きまたはマハと夜泣きうぐいす、藁人形。全然知らなかった人の全然知らなかった作品である。リズムが強調され、いかにもスペイン! という感じだった。
 四曲目、チャイコフスキー 組曲『四季』全曲。一月から十二月まで、つまり12曲。
 いずれも、はじめて聴いた曲ばかり。
 居眠りしたらどうしよう、と思っていたのだが、居眠りなんかしている暇はなかった。目の前で進行する事態についていくだけで精一杯だった。年齢のせいか、すでに帰路では記憶が曖昧で、ほとんど何も覚えていなくて情けなかったけど、とっても面白かった。家人は素晴らしい先生に教わっている、と確信した次第。
 なんと言っても、目の前で実際に演奏しているのだから、その迫力たるやすごいものがある。圧倒的である。なぜあんなに素早くしかも正確に指が動くのか理解できないが、もちろん長い鍛錬の蓄積のゆえだろう。ここで、才能、という言葉の重みが身に沁みる。そしてさまざまなことを考えた。美術は、ちょっと甘い、かもしれない、などと。
 家人が、私が教わるなんて申し訳ないくらい、と呟いた。家人は、小さな頃に少し教わっていたピアノを老化やボケに抵抗するために再開しようと、一年ほど前にインターネットでさまざまに探してこの先生と巡り合った(らしい)。月に二度だけのレッスンを受けているもののほとんど進歩がない、と家内はかなり苛立っているようである。その苛立ちの訴えを、私は耳を馬に変容させて受け流している。馬には申し訳ないことである。やはり、家人も先生の演奏に感動したのだろう。押し付けがましさが全く感じられないので、余計に感動させられたはずで、それゆえの発言だと思った。レッスンを増やして貰えば? と応じたものの、これ以上はとてもムリ、と言う家人もまた尊重せねばなるまい。
 何度目かのアンコールの拍手を受けて、マイクを持ってピアニスト=家内の先生が話し始めた。その話がとっても良かったが、残念、ここでは割愛する。ともかく私は、家内がこの先生からクビになってもこの人のファンで居続けようと思った。
 アンコールの演奏はスクリャービンのエチュードから。思いがけないほど力強い演奏だった。再度アンコールを、の拍手が止まなかったが、件の先生は何度目かの登場の時に、もうお帰りください、というようなジェスチャーをして、また笑わせてくれた。素晴らしい。
 ちなみにその先生の名は、「臼井秀馬」。
 こういう時間もいいものだなあ、としみじみ感じながら帰宅したが、ぐったり疲れていた。やはり緊張しきっていたのだろう。
「やまと絵」展をみた
2023-11-13
 東京国立博物館で「やまと絵」展をみた。SNSの複数の投稿に、すごい量なので覚悟して行くように、とあった。なので、空腹に備えてポッケに飴玉を複数持って行った。バテ始めたら監視のお姉さん、お兄さんの目を避けてこっそり舐めればいいんじゃないか、と思って。結局、展示室では空腹を感じている余裕がなかった。
 さすがにすごい出品数と密度。ザッと見ただけで、ずいぶん時間がかかった。堪能ということができたわけである。が、「やまと絵」と言うときに、雪舟が含まれるのか、とか、宗達は「やまと絵」とは言わないのか、など日頃の不勉強が露呈してくるのはつらい(雪舟が出ていて宗達は出ていなかった)。つらいが、不勉強なのは事実なのだから、調べてみた(「ウィキペディア」で)。が、よく分からなかった。
 この列島の風景や人物を描いた平安時代から江戸時代くらいまでの絵のことを「やまと絵」というようだが、図録の冒頭で、土屋貴裕氏が「やまと絵の歴史は長く、また対象とする主題も多岐にわたり、その全貌をまとめることは難しい」と書いて論を始めている。全貌をまとめることが難しいので「本論では、やまと絵が成立した前後の状況を見直しながら、草創期のやまと絵を考えるうえで重要な要素である和歌との関わりを中心に、その後の歴史を大きく振り返ってみたい」と続けている。
 会場に入ると、いきなり秦致貞「聖徳太子絵伝」(1069年=平安時代)がある。初めて見た。大きい。曖昧な色の広がりがきれいだがよく見えない。メガネを忘れてきたのである。慌ててロッカーに戻ってカバンからメガネを出して装着し会場に戻った(入場した当日であれば会場の出入りは自由になっていて、ありがたい)。茶系の色の広がりに極めて微妙なグレイや緑、黒、朱が点在している。名状し難いそのグレイの色合いは雲とか霧や霞を表しているようである。比較的明瞭な茶は建物の屋根、緑は植物や樹木、黒は聖徳太子の衣服というかシルエット。いくつもの場面が横方向のグレイの色の広がりで展開していくように見える。横方向と言えば屋根の茶色もその動勢を強調している。そこに山=地形を示す幾重もの曲線が介入して、場面転換が図られている。が、どんな場面かまでは読み取れないし、あまり興味も湧いてこない。ともかくいきなり綺麗で、虚を衝かれた。あの“ダチョウ倶楽部”ならきっと三人で(あ、一人亡くなっちゃったから二人で)、つかみはオッケー! と言ったはずである。
 あとはもう、あきれるほどのたたみ込み。息がつけない。「日月四季山水図屏風」(室町時代)があるわ、雪舟「四季花鳥図屏風」(室町時代)があるわ。
 久々に見た「日月四季山水図屏風」は、いかにもやまと絵、という風格で素晴らしい。没入ということをしてしまった。同じ並びに雪舟が出てくる。え? 雪舟って、やまと絵なの? と疑問がよぎるが、あまりの切れ味に目を凝らすこと以外のことができない。幾重にも重なる形状をなんなく描き分けてあってため息が出る。ふと、画面に黒い点々が散在していることに気づき、一体なんのために? と気になって、気になると止めようもなく、長い時間目を凝らしたが、結局は分からない。同じように、縦の短い細線がパラレルハッチングのようにあちこちに描かれているが、こっちの方は水辺の葦とかだろう。うーん、気になる。気になるが答えが出せない。どなたか、黒の点々についてご存知なら、ぜひご教示いただければありがたい。
 ここまでですでに長い時間を費やしてしまった。「序章 伝統と革新ーーやまと絵の変遷」とあるコーナーである。オッケーどころか、つかみすぎ。

 以下、次のように進む。
 第1章 やまと絵の成立ーー平安時代ーー
   第1節 やまと絵の成立と王朝文芸
   第2節 王朝貴族の美意識
   第3節 四大絵巻と院政期の絵巻
 第2章 やまと絵の親様ーー鎌倉時代ーー
   第1節 写実と理想のかたち
   第2節 王朝追慕の美術
   第3節 鎌倉絵巻の多様な展開
 第3章 やまと絵の成熟ーー南北朝・室町時代ーー
   第1節 きらめきのかたち
   第2節 南北朝・室町時代の文芸と美術
   第3節 和漢の混交と融合
 第4章 宮廷絵所の系譜
 終章 やまと絵と四季ーー受け継がれる王朝の美ーー

10月のこと 5  アンジェイ・ワイダによるタディウシュ・カントル『死の教室』の映像を早稲田のshyで見た
2023-11-08
 早稲田のshyは故室伏鴻氏の活動をアーカイブするカフェである。
 私が最初に訪れたのは、中西夏之さんが亡くなってしばらくして、中西さんを偲ぶ座談会がそこで開かれた時だった。私を含む聴衆がギューギューだった中で、宇野邦一、林道郎、松浦寿夫の三氏が語り合ったのを聞いたはずだが、松浦氏が初めて中西さんと会った時の話だけ覚えていて、他の話は全部忘れてしまっている。この豪華メンバーでの話を忘れてしまったなんて、いかにももったいないことだ。では、なぜ、松浦氏の話を覚えているかというと、それまで彼の文章や作品の印象から得ていた彼への先入観が、この時、一挙に崩れ去ったからだと思う。松浦氏の話は確かこんなふうだった(細部が怪しい)。

 中西さんから指定された駅(大森駅?)に降り立つと、スキンヘッドの男が現れて、ようこそいらっしゃいました、ご案内します、と中西さんのアトリエまで連れて行かれた。アトリエにはさらに怖そうな人たちがいて、すぐにでも帰りたかったが、〇〇さん(この名前も失念)の舞踏が始まって、帰るに帰れず、舞踏が終わってからも一刻も早く帰りたかったが、怖くて帰れなかった。そんな状況で初めて中西さんに会った。

 松浦氏はそんなことをもっともっと上手にしゃべってみんなを笑わせていた。それを聞きながら、へえ、意外にいいやつそうだなあ、と私は思ったのだった。なので、shyというカフェは、私が知らなかった松浦氏の一側面を垣間見た記憶とどうしても重なってしまう。
 その後も、そのカフェの近所に行く用事があった時に何度か立ち寄った。壁には一冊一冊白いカバーをかけられてタイトルが書かれている室伏氏の蔵書がずらりと並び、中西さんの絵が使われた室伏氏の公演のポスターなども置いてあった。テーブルには舞踏の研究者らしき人が傍にコーヒーカップを置いてパソコンと睨めっこしていることもあった。
 一度だけお店の女性に、室伏氏が「背火」を旗揚げしたとき、中西さんの「コンパクトオブジェ」の木製の原型を炭にする、というイベントをやったそうですが、その炭は残っていますか? と尋ねてみたことがある。
 その女性は、あれは失敗してしまって残っていません、と答えてくれたが、会話はそこで途絶えてしまった。私は確かに気が小さすぎるし人見知りだが、「コンパクトオブジェ」に木製の原型があってそれを「背火」の旗揚げの時に炭にしようとしたことを知っているこのジジイは何者か、と訝しがられたであろうことも否めないだろう。それで、会話が続かなかったのかもしれない。が、このジジイは、ただの古本好きで、たまたま「背火」の旗揚げ公演で配布された冊子をどこかで安く入手して中身を読んでいたに過ぎなかったのだが、そうした説明をするのは鬱陶しかった。結果、なんとなく気まずくなって、以来、訪れていなかった。

 (また、前置きが長くなった。いつも長い。反省している。)
10月のこと 4、「風景論以後」展を見た(10月13日)
2023-11-06
 ずっと気になっていた東京都写真美術館の「風景論以後」展に訪れたのは、長谷氏と林氏の作品を見て「インスタレーション」のことや「風景」のことをぼんやりと考えていたからかもしれない。
 1970年前後に「風景論」が盛んだったという記憶があること、それについては、以前、ここ(「雑記帳」欄)でほんの少し触れたことがある。
 「風景論」は、永山則夫氏(すでに死刑が執行されたので“氏”をつけて表記する)の足跡をたどる映画『略称・連続射殺魔』がきっかけになって始まった、と記憶していたからである。当時19歳の永山氏が東京、京都、函館、名古屋、と連続射殺事件を起こしたのは1968年10月11月だった。永山則夫氏のことを書いて(打ち込んで)いけば、それだけで長大な文章にならざるを得ないので省略するが、1949年に網走で生まれて津軽で育ち、ずっと貧しい暮らし向きで充分な教育を受けることもできないまま集団就職で上京した(上京前に2度の家出があった、という)。上京後は流浪の生活だった、と言ってよいだろう。その過程でピストルを“入手”して起こした衝撃的な事件だった。
 映画『略称・連続射殺魔』は、彼の足跡を追って、彼が見たであろう「風景」だけをカラー撮影して作られた映画である。1969年に作られたが、一般公開は1975年になってからだったようだ。映画の制作は足立正生(監督)、岩淵進(制作)、野々村政行(撮影)、山崎裕(撮影)、佐々木守(脚本)、松田政男(評論家)の各氏で行なった。音楽評論家の相倉久人、ドラムの冨樫雅彦、サックスの高木元輝の各氏も音楽で参加した。これらのメンバーの一人、松田政男氏が、制作中のこの映画のことを1969年12月に雑誌で発表した文章の中で触れたのが「風景論」の始まり、と言われている。その文章は若松孝二氏の映画についての文章だったらしいが、筆者は不勉強で未読である。
 当時、松田氏がいろいろな場で書いたことを思いっきり圧縮すれば、映画の撮影のために4ヶ月間、網走ー札幌ー小樽ー函館ー青森ー板柳ー山形ー福島ー宇都宮ー小山ー東京と移動しながら(松田氏たちが)発見したのは、「この日本列島において、首都も辺境も、中央も地方も、東京も田舎も、一連の巨大都市として劃一化されつつある途上に出現する、語の真の意味での均質な風景なのであった」(松田政男「わが列島、わが風景」『風景の死滅』(1971年、田畑書店)所収)、ということであった。松田氏には、そうした「風景こそが、まず持って私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された」(松田政男「風景としての性」「風景論以降」展図録より孫引き)、というのである。言い換えれば、風景の中に〈権力〉を発見することができる(発見せよ)、ということである。
 こうした松田政男氏の「風景論」が次々に「論」を呼び、その中の代表的な論者が写真家の中平卓馬氏だった、と記憶している。また、大島渚氏の1970年の映画『東京戦争戦後秘話』(「戦」は中国語表記だろうか、ホントは“占+戈”の文字が入るのだが、私のPCの漢字変換では出てこず、そうなると筆者には当該フォントの見つけ方、作り方がわからない)が、新たな「風景映画」として登場して、「風景論」はさらに盛んになったと言われているが、それも省略する(「風景論以降」展図録には記述がある)。なお、この大島渚氏の映画には、脚本で当時19歳の原正孝(のちの原将人)氏がすでに実績のあった佐々木守氏と共に参加して大きな役割を果たしていて話題になっていた。北海道で高校生だった私は、それ以前に地方新聞の片隅に載った小さな記事で、“フィルム・フェスティバル”で東京の高校生がグランプリを獲ったことを知った。それが『おかしさに彩られた悲しみのバラード』というタイトルであったことや、その高校生の名が「原正孝」であったことをつい記憶してしまった。が、その映画はいまだ見る機会がない。
 

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