藤村克裕雑記帳

藤村克裕雑記帳277 2025-04-18

「スペース23℃」での榎倉康二展(2)

 100号や30号の中に配された黒い正方形の形状は、描いたり、写真製版したシルクスクリーンによって刷り上げることで画面に得られたのではないように見える。正方形を有するなにかの物体に色を塗って綿布に押し当てて得られたように感じられる。それは、この「干渉率」のシリーズに取り組む前の「無題」のシリーズを知っているから、そう感じてしまうのかもしれない。とはいえ、正方形の形状を備えたなにかの物体を用いているという印象はぬぐえない。思わず、1972年の写真作品「干渉率B(空間へ)」のシリーズに登場する15×15×15㎝の鉛の立方体を用いたように思い込んでしまいそうだが、あきらかに寸法が違っている。別のなにかが使われているはずである。そのなにかの物体のフロッタージュとか拓本とかという可能性もあるが、シンプルにデカルコマニーと考えるのがいいだろう。もっといえば、凸版によるモノタイプの版画。
 その正方形の周囲に広がるにじみ=しみは、黒い色が油性であるゆえに綿布に生じているように見えるが、榎倉氏の手によってにじみ=しみのような表情を得るために“作られて”いるのかもしれず、本当のところが分からない。ここでも私(たち)は、このシリーズの作品以前の榎倉氏の代名詞のような油=廃油=しみの作品の展開をあらかじめ知っているがゆえに判断が危うくなってしまっている。
 いずれにしても、今回展示されている「干渉率B(空間へ)」のシリーズでは、画面の中に、黒い正方形の形状をしたものが、唐突に放り出されたような印象を生じている。その理由として、一つには縫い目の水平との関係、二つには綿布の薄さと白さ、その面積の広がり、三つには正方形の傾き。また、会場に一緒に展示されている3点の写真作品がその印象を誘導している感があるのも否めない。
 制作されてから長い年月が経ってしまったことが、綿布に散らばる無数の小さなシミからあらわである。この自然のしみが、榎倉氏のしみの作品にあらたな表情を刻々と加えているのだ。
 余計なことだが、今回展示されている30号の「干渉率B(空間に‥‥)ーNo.2」は1978年10月23日~11月4日の西村画廊個展「干渉率」においての出品作の一つである。当時の図録に掲載されているからまちがいないだろう。ところが、この文の最初に述べた作品集『榎倉康二 KojiEnokura』の中の「資料編」の年譜の1978年の項には、西村画廊個展「干渉率」開催についての記載がない。理由は分からない。

 さて、3点の写真作品である。1972年、すでに述べた一辺15cmの鉛の立方体を、長野県の山中や、当時関内にあった横浜市民ギャラリーのがらんとした建物内で、空中に放り投げたその瞬間を撮影したものである。広い空間に何かを放り投げてみたくなる気持ちは誰しも抱いたことがあるから、この写真には共感を覚えるところが大きい。また、放り投げられた立方体の空中での一瞬の姿を捉えることができる写真の特性を生かしきった作品だと素直に受け止めることもできる。同じシリーズのいくつかの写真はよく知られているが、この3点をすでに見たことがあったかどうか、記憶が曖昧である。
 帰宅してから調べてみると、今回展示された3点の写真のうちの1点は、1972年に南画廊で開催された「ベスビオ大作戦 プロジェクト」展に榎倉氏が出品した二つのプランのうちの一つのために用いられたシートに貼り込まれた8点の写真の中の1点だったことが確認できた(『榎倉康二遺作展』図録 東京芸術大学美術学部 芸術資料館編、1996年)。つまり、ベスビオ火山の火口とかで何かを空中に放り投げる、というプランを示すための写真だったのかもしれない。その写真を示しておく。他の2点の写真についてはその初出が不明で確認できていない。
 「ベスビオ大作戦 プロジェクト」展と同じ年の「今日の作家」展(横浜市民ギャラリー)に、榎倉氏は、写真作品7点を出品して参加した、という記録がある。これに、今回「スペース23℃」で展示されている写真作品が含まれていたかどうか、分からない。また、2005年に東京都現代美術館で開催された「榎倉康二」展の図録(熊谷伊佐子氏と鎮西芳美氏の編集)には、この時、写真作品7点だけでなく、インスタレーション作品『無題』も出品されていた、との記述がある。このインスタレーション作品のことも、詳細が分からない(不覚にも私はこの展覧会を見ていない)。分からないことだらけである。
 ともかく、1971年のパリ・ビエンナーレのための現地制作からの帰国後、とりわけ1972年には、この写真作品3点を含む「干渉率B(空間へ)」シリーズの写真作品制作を始めただけでなく、よく知られている多くの写真作品が生まれているから、榎倉氏がこの時期に写真に集中的に取り組んでいたことは間違いない。
 これも余談になるが、1971年のパリ・ビエンナーレには、写真家の中平卓馬氏も参加していた。その時の中平氏の作品『サーキュレーション』のための一部の作業を榎倉氏が手伝ったことは、よく知られている(このパリでの中平氏の展示の様子を捉えた中平氏の写真には、その展示に榎倉氏の顔のアップをとらえた写真が含まれている)。おそらくは、この中平氏との出会いと東野芳明氏からの「ベスビオ大作戦 プロジェクト」展への誘いが、榎倉氏が本格的に写真と取り組むきっかけになったのだろう。中平氏は榎倉氏の実質的なデビューになったあの伝説的な展覧会=1970年の『第10回日本国際美術展〈人間と物質〉』の図録の表紙やポスターの写真を撮影した人でもあった。
 榎倉氏の写真との集中的な取り組みは、1972年以外にも1974年~1975年のパリ、1993年~1994年にもなされていた。また、勤務先の東京芸大では「写真センター長」の任にもあたっていて、東京芸大内での写真展の企画と開催も定期的に行なっていたように、写真との取り組みが継続的になされていたことは言うまでもない。榎倉氏の写真作品には独特の魅力がある。

 すこし視点を変えたい。
 榎倉氏は、1971年11月の「第8回東京国際版画ビエンナーレ」に「二つのしみ」を出品していたことはすでに述べた。つまり、1972年の11月以前にはすでに写真製版によるシルクスクリーンで版画にも取り組んでいたことがわかる。このことを起点にして、榎倉氏の作品の流れを、版画、つまり「版」を用いた制作、ということを軸にして考えてみると、じつにすっきりしてくることに今回気がついた。そのことについてメモしたい。

 今回展示された「干渉率B(空間に)」を含む「干渉率」のシリーズには「干渉率A」と「干渉率B」との二つのシリーズがあるので「干渉率A」のシリーズから作例を一つ示しておく。1978年の西村画廊での個展では「干渉率A」のシリーズの作品を多数並べて、「干渉率B」のシリーズはあまり並べられていなかったようである。同年の「今日の作家〈表現を仕組む〉」展で「干渉率B」のシリーズだけを展開した、と思われる。ここで榎倉氏の作品の展開を「版」という軸から見直してみると、「干渉率」のシリーズは、榎倉氏の作品の展開のうえでとても大きな意味を持っていたことが分かってくる。つまり、うっかり素通りできないできないのである。「版」との取り組みはその後も何年間か続くが、1977年~1978年の「無題」のシリーズを含めると二度大きく転換している。その転換のきっかけが1978年の「干渉率」のシリーズにあったことが見て取れるのである。つまり、「干渉率」のシリーズの始まりと終わりに大きな転換点が隠されているように思えてならないのである。
 それを説明する前に、版画は紙=支持体と版とインク=色材とで成り立っているという当たり前のことを確認しておこう。支持体やインクはいかようにも変容できるし、現に榎倉氏は変容させているが、「版」が介在したシリーズ、という意味では一貫している。「版」が作品に介在すれば、それは版画といっていいだろう。
 榎倉氏が初めて版画作品を発表したのは1972年の「第8回東京国際版画ビエンナーレ」だったことはすでに述べたが、この時「大賞」を得たのは、高松次郎氏のタイプ打ちした「版」をコピーしてファイルした作品「The Story」だった。ふつうに考えている版画の姿とは似ても似つかない姿の作品だったのである。これにしめされるように、この時期、版画の概念はさまざまに問いかけられ拡張されてきていた。例えば、唐十郎氏が、抱えた焼き芋が胸に温かさを伝えてくるのも版画だ、と発言したりしたほど、「版」の考え方は自由になっていた。
 そうした状況を考え合わせると、榎倉氏の、1972年の「二つのしみ」やとりわけ1977年~1978年の「無題」のシリーズの展開から、今回展示された1978年の「干渉率」のシリーズ、さらに1979年~1980年の「無題」のシリーズへの展開は、「版」のあり方をめぐっての展開だったと見ることができるし、そう見た方がよい。その方が、徐々に描くことに回帰しながら展開していくその後の榎倉氏の作品の流れがすっきりと見えてくる。

 私(たち)はすでに、榎倉氏が最初期から油(廃油)を使って作品を制作してきたことを知っている。また、私(たち)は、油(廃油)は紙や布といった繊維やコンクリートのような固形物の表面の微細な凸凹に入り込んで調子や色を変化させる性質を持ち、そうなってしまえばそれはなかなか消えず、厄介なだけでなく、独特の表情を私たちに差し出してくることも知っている。そして、榎倉氏はそうした油のしみを巧みに用いて作品を展開してきたことを知っている。
 とりわけ、「版」ということからは、1977年の真木画廊、ときわ画廊での個展で、二枚の綿布を縫い合わせて作った横長の大きな綿の布に廃油を含ませた細長い板、あるいは角材を押し当てて出来たかのような形状=痕跡と、そこからさらに廃油からのにじみ=しみを生じさせて、それを壁にピン! と張ってその細長い板(角材)と共に作品化した「無題」のシリーズの登場させた。
 この「無題」のシリーズは、1977年の「今日の作家展〈絵画の豊かさ〉」展にも登場し、ここでは、綿布を木枠(パネル)に張る、という形式で、廃油を染み込ませたベニヤ板とともにそこからの痕跡としみと組み合わせた作品も発表していた。これらのシリーズから主要な作品を改変して1978年の「ベニス・ビエンナーレ」に出品したのである。
 これら1977年~78年の作品は「版画」として見ることができる。つまり、横長の大きな綿布やパネル張りの綿布は、「版」から図像=痕跡を得るための支持体であり、廃油が浸み込んだ細長い板(角材)やベニヤ板は「版」の役割とインクの役割とを兼ねていて、支持体にその形状=痕跡を残すばかりでなく、さらに、作品の一部として作品に登場するのである。つまり、色材としてのインクの代わりに油(廃油)を用いたがゆえに可能になった版画作品だった。

ここから、少々回り道にはなるが、「版」に関わっての榎倉氏の作品の流れを見ておきたい。

 すでに述べたが、榎倉氏は、「第8回東京国際版画ビエンナーレ」に、「二つのしみ」という版画作品を出品している。
 どこかで見つけた(あるいは自分が作った)実際のしみを写真撮影してシルクスクリーンに製版し、それを2回(1回はフェルト上に、もう1回は綿布とフェルトにまたがるように、と都合2回)刷る、つまり同一のシミの形状を二つ刷った作品である。時系列でみれば、同じ年のロンドンでの「The 1st Contemporary Japanese Graphic Exhibition」へ「二つのしみ」を出品したという記録の方が早いが、タイトルは同じでも同じ作品であったかどうか、分からない。
 この「二つのしみ」にはいくつかのエディションがあるようだが、これも確認できていない。確認できた範囲では、刷られたしみの形状は同じでも、その位置や傾きが違っているだけでなく、例えば、東京国立近代美術館所蔵の「二つのしみ」の場合では、刷られたしみの形状からの新たなタレやにじみ=が確認できる(『もの派ー再考」展図録』2005年 国立国際美術館)。つまり、榎倉氏は、この時、版画の複数性(=同一の大きさの支持体に同一の図像をエディションとして複数揃えること)にはほとんどこだわっていなかったことが見て取れるし、版画用インクではなく油=廃油のようなものでしみの形状を刷りとった可能性も見て取れる(未確認である)。廃油であれば、フェルトや綿布に同一の形状を刷ることで、しみの物理的な深さのコントラストが生じただろう。つまり、ここでは版画の支持体や媒材との関係も問題にしていたわけである(「版」は写真製版したシルクスクリーンだったからオーソドックスだった)。
 その結果、本来同一の形状ではありえないはずのしみがふたつある、という奇妙な状況が生まれ、さらにしみの形状からしみができる、というトートロジーを含んだ作品が得られる事になった。

 「二つのしみ」の発表から5年後の1977年、榎倉氏は、西村画廊での個展=「Koji EnokuraScreenprints」で、それまで作りためてきた版画作品の発表をしている。
 この時は、やはり写真製版したシルクスクリーンで、たとえば榎倉氏の自宅庭の柿の木の枝とか、上方ふたつの隅を壁に留められて自身の重さをだらりと重力に預けている様子の布、写真を撮影した写真、どこかで採取=撮影した実際のしみの形状など具体的な画像が、紙に刷り取った作品群が並んだ。ただし、それらの画像からは、それぞれさらにじんわりと、実際のしみが画像の周囲にさらに滲み出していて、そこが見所だった。
 榎倉氏は版画用のインクにさらに乾性油を混ぜ合わせてつくった“手製インク”で刷り取っていたのである。「二つのしみ」をインクではなく廃油を用いてフェルト布と綿布に刷ったように、この時も紙=支持体とインク=色材との関係に問題意識の焦点を合わせていたことは明らかである。シミの図像からさらに油のシミが広がっていくのだから、版画用のインクは油性なのだよ、との強調もなされていた。この時も、「版」それ自体の現物が作品の中に示されて作品の一部になることはなかった、ということは注意しておきたい。
(つづく)

→「スペース23℃」での榎倉康二展(3)
https://www.gazaizukan.jp/fujimura/columns?cid=330

榎倉康二没後30周年展

会期:2025年3月14日(金)〜4月27日(日)
開廊日:金・土・日
​開廊時間:13:00〜18:00
会場:SPACE 23℃
公式HP:https://www.space23c.com/exhibition


写真6:榎倉康二の写真ネガより15×15×15cmの立方体(東京藝術大学美術学部 芸術資料館編・発行「榎倉康二遺作展」図録、1996年、より撮影)
写真7:榎倉康二 写真作品「干渉率B(空間へ)」1972年(「スペース23℃」にて撮影)
写真8:榎倉康二「干渉率A」のシリーズより、1978年(西村画廊の榎倉康二展の図録より撮影)
写真9:榎倉康二「二つのしみ」1972年、シルクスクリーン、東京国立近代美術館所蔵(国立国際美術館「もの派ー再考」展図録、2005年より撮影)
写真10:榎倉康二「予兆 布 No.1」1975年 東京都現代美術館蔵(東京都現代美術館「榎倉康二展」図録より撮影)

藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

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