藤村克裕雑記帳

藤村克裕雑記帳280 2025-06-13

「自由を扶くひと 望月桂」展を見た

 6月5日。ひさびさの晴天。東武東上線・東松山駅に降り立って、市内循環バスに乗り、「丸木美術館東」で下車、さらにテクテク西に向けて歩き、なんとか「原爆の図 丸木美術館」にたどり着いて、表記の展覧会を見た。晴れ渡った外は明るすぎるくらいだったのに、ほぼ半日、自然光がほとんどない環境にいたことになった。帰路、外がとてもまぶしかった。
 展覧会タイトルの「扶く」を恥ずかしながら読めなかった。大昔、高校入学時に買わされた今やボロボロの『角川漢和中辞典』で調べて、やっと読めるようになった。「たすく」と読む。「望月桂」は、そのまま素直に「もちづきかつら」。

「原爆の図 丸木美術館」にははじめて行った。
 この名高い美術館の名はもちろん知っていたが、「原爆の図」というハードさに対する気おくれ、あるいは複雑な思いがあって、訪れるには至らなかった。が、今回は、「望月桂」 という人の作品をぜひ見たかったので、意を決して行って来たのである。
 最近、卯城竜太氏と松田修氏との対談を収めた『公(こう)の時代』(朝日出版社)という本をたまたま読んで、すごく感心したことは先にこの「雑記帳」に書いた。その本で、望月桂というひとや横井弘三というひとのことを初めて知ったことも書いたが、その後、偶然、この展覧会のことを知った。その時、これは見に行く、と決めて、その偶然に感謝した。

 たどり着いた「丸木美術館」の入り口、その分厚そうな板の扉は閉じられていた。めげずに扉右手のガラス窓から声をかけ、奥に現れた女性からチケットを買った。入口扉を、えいっ、と押して、中に入ると、ホールがいきなりショップになっていて、いささか面食らった。右手はガラス窓越しに事務所、左手に二階への階段やトイレがある。右手前方に通路を見つけて、ぐんぐん進む。左手に二つ展示室があったが、これらを素通りしてさらにぐんぐん進んで、風間サチコ氏デザインという(あとで知った)ヘチマをあしらったロゴのある仮設壁の両側の、人が出入りできるほどの“すきま”、その右側から展示室に入った。すぐのところに出品目録があったので、メモ帳がわりにさせてもらった。

 この最初の展示室の作品番号「1」は、「大町の景」というタイトル。「1902年(1913年頃印刷)」とある。
 手前の街道らしき道。その向こうとこちらに木造二階建ての建物が並んでいる、電信柱が道の手前に一本、向こうに二本。背後は丘陵になっているのだろうか、そこにも家々が小さくあって電信柱もさらにもう一本描かれている。そして遠くに険しい山並み。空に白い雲。路上には荷車や人物なども描きこまれており、人物が少し小さいのではないか、と感じさせるものの、うまい! 
 岸田劉生のいくつかの風景画を例にあげるまでもなく、電信柱は“文明開花”の象徴というか、この当時、“ハイカラ”で珍しいものだっただろう。また、家並みは、透視図法を踏まえて描かれており、描線が的確で無駄というものがない。水彩の扱いも手慣れたものだ。小さな風景画だが、驚くべき力量である。
 が、キャプションの「(1913年頃印刷)」とはどういうことだろうか? それに、うまい絵ではあるが、なんだかこの時代の美術教育の主流を成した「臨画」、あるいはその“手本”のような印象も受ける。
 で、作品に添えられた“解説文”を読んだ。こう始まっていた。

 「望月桂が15歳頃に描いた水彩画を、おそらく約10年後の1913年頃に自身で製版し印刷したもの。長野県大町市のかつての風景である。(以下略)」 

 1902年といえば明治35年。望月桂は15歳で、信濃大町の風景をこう描いた、というのである。その絵を、約10年後に望月自身が製版し印刷したのがこれで、こうして展示しているのだ、というのである。わけがわからない。

 さらに読み進むと、望月は、1901年に松本中学に入学、その時、松本中学の国語教師の飯田弟治(いいだおとはる)の書生となった。次の年(1902年)に飯田が松本中学大町分校に転勤になったので、望月も大町分校に転校。「大町の景」は、その大町=信濃大町で描いたと思われる。飯田は翌年(1903年)に『信濃毎日新聞』の編集長に転じて松本に戻ったので、望月も松本に戻った。望月は大町分校で平林盛人(ひらばやしもりと)と知りあって終生の友となった。平林盛人は、陸軍軍人、1937年満州国最高顧問、1945年3月長野師管区司令官、松代大本営の建設に関わる。戦後は穂高町長。碌山美術館の設立に尽力。

 このように、説明文にはたいへん情報量が多くて、じつに気合が入っていた。が、その分、私には混乱が生じてしまった。
 
 1902年に15歳ならば、生年は1887年か? 絵を描いた約10年後に、その自分の絵をわざわざ製版して印刷したとはどういうこと? 松本中学の国語教師の書生になった? ということは松本で生まれ育ったのではない? じゃ、どこで? 「臨画」のことは見当違い? 実景ならば信濃大町の電化はいつだった? などなど。

 そこで、展示室内を見渡したら、会場入り口に立って私を迎えてくれた風間サチコ氏特製のロゴのあった仮設壁の“裏側”、つまり室内にいる状況からすれば仮設壁の“こちら側”、そこに、「第一章 安曇野から/安曇野へ」と題されたこの部屋の展示の導入のための説明文のパネルが掲げられていたことに気付くことになった。
 この“導入文パネル”は、仮設壁の両側から展示室内に入るように仕組まれている観客の動線からすれば、じつに気付きにくいところに掲げられていたのである。明らかに会場構成の不備だろう。
 などと、私はこだわらず、寛容に、その“導入パネル”前に移動して、そこの文面の精読に励んだのだった。

 その“導入パネル”の文によれば、望月桂の生年月日は1886年12月23日。生まれ育ったのは、現在の安曇野市明科中川手というところ、生家は蔵を構える代々庄屋の大地主だったという。へえ、裕福な環境で育ったわけだ、、、と、先ほど「1」の説明文を読みながら生じた疑問がまずふたつ氷解したのであった。
 さらに読み進めれば、望月が書生となった松本中学国語教師の飯田弟治の趣味は、水彩画を描くことだったことも分かり、その趣味を支えた当時の背景(1890年代の水彩画の流行という背景)も分かって、望月桂はこの飯田を心から慕ったがゆえに、飯田を追って、自分も松本から信濃大町へと転居した、ということなのであった。で、「大町の景」を描いた、と。
 また、望月桂は、松本中学で美術教師=日本画家の武井眞澂(たけいしんちょう)(=武井真澄)からも可愛がられた、とあって、武井は優秀な教師だったのだろう、望月の同級生には(つまり武井の教え子には)、郷原古統(ごうはらことう)(統一郎)という人がいて、この郷原はのちに東京美術学校日本画科を卒業して台湾に赴き、台湾近代美術の礎を築いたというのである。
 望月の生家近くは、犀川・穂高川・高瀬川と三つの川が合流するところ、ゆえに、そのあたりは昔から川の氾濫、治水に長く苦しんできたところであり、やがて「共有地化」という珍しい制度を生み出して来た、と、そんな歴史があったことや、明科(あかしな)が革新的な場所でもあったことにも“導入文パネル”は触れていた。その例として、1910年=大逆事件の年に、望月の生家近くで爆弾を製造し、犀川の河原で爆破実験をして逮捕された者がいた事を述べていた。すごいな。
 松本中学卒業を控えた1905年、望月は進路をめぐって親と対立し、あげく家出して、雪の夜に徒歩で山を越えて上田まで行き、そこから信越線で上京した、ともあった。
 翌年(1906年)、望月は東京美術学校西洋画科選科に入学し、やがてここを卒業したのだが、卒業制作の油画=「こたつ辺」からは、故郷に対する望月の複雑な思いが見て取れる、という指摘もなされていた。とはいえ、美校の選科と本科とはどう違うのか、というような“細かいこと”には触れていない。

 というわけで、自分の昔の絵を取り出してそれを自分で製版し印刷した、といういささか奇妙な望月の振る舞いについては、“導入文パネル”においてはまったく説明されておらず、1905年の家出以降、東京でのことについても、翌年(つまり1906年)に東京美術学校入学、とはあっても卒業年は分からず、このような大事な(と私には思われる)情報が割愛されている。これらの情報は、おそらく、ほかの説明文やほかの「章」の“導入文パネル”に先送りされているのだろう(事実そうだった)。難儀なことだ。
 この展示室の“導入文パネル”では、他にもここに展示されている作品との関係もあってか、信越線のことや、横川発電所(=信越線の電化)のこと、のちに彼の妻となる中村ふくの一家が長野から移り住んでいた小諸のこと、美校の卒業制作のこと、実家の蔵のことなどに触れていた。が、望月は1945年以降を、故郷=安曇野市で過ごした、というような極めて大事なことには、触れていないのだった。
 などとこだわらず、この最初の展示室では望月桂と信州との関わりを示している、ということは理解できたことに満足し、部屋を一巡していった。

 この部屋の最後には、1967年(81歳)作の油彩、「自画像」が展示されていた。それは、1965年まで10年間勤めた松本南高等学校では、望月桂のファンの女生徒たちの間で(女子校なのだ)、「桂クラブ」ができていたというが、そのように、うらやましい爺さんの正面からの自画像だったのである。

 やがて、展覧会全部を一巡して、各章の“導入文パネル”の文と、各作品や資料に添えられた説明文との間、また説明文どうしの間の内容の重複や、ちょっとした誤り(後で述べる)にも気付かされることになるが、それらは、この展覧会へ向けて、「原爆の図 丸木美術館」や「望月桂調査団」はじめ関係者が、初日直前までどれほどの奮闘・苦闘を重ねたか、という様子をあらわに物語っており、この手作り感はそれはそれで好ましい、と感じるようになっていった。それは、まず、この望月桂という人が残した作品や資料に魅力がある、ということが第一の理由であるが、同時にまた、長期間、ほとんど誰にも知られることなく望月家の蔵に眠り続けてきた作品群や資料群を丹念に掘り起こして、こうして展覧会の形にまとめるに至った足立元氏はじめ「望月桂調査団」の人々の情熱が伝わってくるということからであろう。頭が下がる。

 そういうわけで、展覧会全体の“章立て”を示しておく。
 第1章 安曇野から/安曇野へ 
 第2章 美術からの逸脱、アナキズムとの出会い
 第3章 黒曜会 現代アートの基点として
 第4章 大杉栄の背中と眼
 第5章 あの世からの花
 第6章 犀川凡太郎と戦争
 第7章 LIFE IS ART 生活即芸術 

 この章立てはともかく、美校卒業後の望月桂には、重要な節目がいくつかあった、と展示を見て感じられた。上記の章立てにほぼ準じている、とは言える。その節目について書く。

 一つは、1911年、野沢中学の教員を一年で辞し、明科(あきしな)の実家に戻って、写生などしながらしばらく過ごし、松本の陸軍歩兵第五十連隊で絵を教えたりもしていたのだが(さすが、大地主の息子である)、その間に、のちの妻=中村ふくと長野で出会ったこと。

 二つ目は、1912年、もう一度上京したこと(もっともたびたびふくの一家の引っ越し先の小諸を訪れて、中村ふくに会っている)。東京で製版と印刷の技術を学んで身につけて、1913年には早くも印刷所を立ち上げたことである。このことを知ると、「大町の景」を製版・印刷したことは、突飛な気まぐれではなかったはずだ、と思われる。また、印刷所の経営は容易ではなかったはずで、1914年7月には胃を悪くして小諸で(!)静養していたという。が、印刷所の経営をはずみに、1915年4月、ふくを東京に呼び寄せて結婚することができた。しかし、その印刷所を結婚後半年余りで倒産させてしまった。倒産は不幸なことだが、次への展開(=「へちま」の経営)のきっかけになった。望月の印刷所の経営=印刷・出版との関わりは、図案、挿絵、漫画へと形を変えながら1939年の漫画雑誌『バクショー』廃刊まで続いており、絵や漫画を情報と捉え、情報を印刷して広く発信し共有していくことが大事、という望月の基本的な構えのひとつをここに見て取ることができる。

 三つ目の節目は、妻=ふくとともに、神田・猿楽町で「へちま」を営み始めたことである。当初は文京区関口にあった「たぬき」を参考にした氷水屋だったというが、この時、すでに店に「糸瓜帖」「楽書帖」を置いて客が自由に“落書き”できるようにしていたことは重要であろう。面白いことは多くの人々と共有するともっと面白くなる、ということだろう。また、同じ頃、印刷所をもう一度立ち上げている。望月は“二足の草鞋”だったのである。「へちま」は半年足らずで谷中に移転して一膳飯屋=食堂とした。妻=ふくなしにこの「へちま」は考えられない。「へちま」という場こそが、望月にさまざまな出会いを呼び込んでいく。とりわけ堺利彦や大杉栄・伊藤野枝との出会いは大きかっただろう。「へちま」をめぐって、人が人を呼ぶ。1917年2月には「平民美術研究会」(絵画教室のようなもの)を「へちま」内で開き、ひと月ほどでこれを「平民美術協会」とした。が、7月に資金難とふくの病気で「へちま」を閉じ、望月は「日本紙器株式会社」の意匠部に勤め始めた。望月は「へちま」を失ってもめげない。望月の自宅は「へちま」の客だった者たちの溜まり場と化し、明科からふくの妹しげも上京してきて居候、それに勢いを得たか、望月は1919年9月からいよいよ自宅で「革命芸術茶話会」を開き、12月には「黒曜会」と名称を改めた。望月たちに、こいつぁ面白れぇ、と確信があったのだろう。いよいよ怒涛の展開が待っている。が、これらはなんといっても「へちま」なしには考えられなかったのである。

 四つ目の節目は、いよいよ「黒曜会」を中心とした諸活動である。「黒曜会」の活動自体は2年半ほどだった、と見て良いだろうが、いかにも濃密である。また、その活動は、美術に限ったものではなく、演劇や唄も含まれていた。社会主義者の会合で荒畑寒村脚本の演劇を上演したりもしたらしいが、なんといっても「黒曜会作品展覧会」を4回開催したことが特筆される。「黒曜会」はもともと「へちま」に通った多様な人々(工員、労働者、社会主義者、労働運動家、文学者など)が構成員だったから、画家としての素養を備えていたのは望月だけと言ってよく、出品作も墨絵や水彩、また賛のある望月の墨と水彩による当意即妙な絵が多かった様子である。賛は多様な人々が書いた。「黒曜会」の展覧会では出品する者を選別しない。その意味では日本初の“アンデパンダン展”といっても間違いではないだろうが、望月の人知れぬ細かで大胆な動きが見え隠れしているようである。そうした作品を展示しただけで、当局から検閲を受け、たとえばタイトルに「反逆」という文言が含まれているなどと、そんなことが撤回命令の対象となったりした。
 こんな話もあった。1920年11月23〜28日に開催した現中央区南伝馬町の星製薬ビル7階での「黒曜会第二回作品展覧会」に、望月は、墨と水彩による「製糸工場(女工)」「遠眼鏡」「反逆性」など4点を出品したが、初日に官憲から検閲や撤回命令を受けた。が、無視して展示を継続。警察は5日目に望月の4点と橋浦時雄の2点とを持ち去った。弁護士・山崎今朝弥は、望月らに警視庁に盗難届を出させた。警視庁の調べで、盗難の犯人は京橋警察署員であることが分かって、新聞記事になったという。また、この弁護士山崎今朝弥は、年が明けた1921年1月1日、「黒曜会第二回作品展覧会」出品作への警察の検閲・撤回命令に関して、返還請求を求めて日比谷警察署長を告訴した(告訴人は望月)。こうした冗談のようなエピソードは『公の時代』でも語られていた。
 1922年6月6〜7日に開催された上野・日本美術クラブでの「黒曜会第四回展」では、当局から全ての展示作品を取り払って撤去するように命じられ、以降「黒曜会」の活動が表立って行われることはなくなったようである。
 1923年6月9日、有島武郎は愛人と心中したが、その数日前に有島が賛を書き、望月が絵を描いた3点の作品が今回展示されていた。
 また、1923年9月1日には関東大震災が発生し、東京は焼け野原となったが、この混乱の渦中、大杉栄・伊藤野枝・宗一が憲兵隊に殺され、望月も妻ふくも娘公子も検束された(10月5日に釈放)。望月一家は釈放後のひと月ほどを明科で過ごすが、この間、和田久太郎は、報復のために、本郷のレストランで陸軍大将福田雅太郎を拳銃で狙撃した。が、空砲だったために失敗し、逮捕された。また、福田邸に爆弾を送ったギロチン社の吉田大次郎も逮捕(のち、和田は無期懲役、吉田は死刑)。12月16日、大杉栄の葬儀には、望月が望月宅で原稿執筆中の大杉を描いた絵が掲げられたが、何者かに大杉の遺骨を奪われた。震災後に望月は、神田、京橋、向島、月島などを歩き、廃墟になった街を油絵で描いて生活の糧にしていたらしい。
 望月は表立った活動を控えて、獄中の和田久太郎と文通したり(ふくの妹しげを和田の内縁の妻と偽って文通を可能にした)秋田刑務所を訪ねたりしたが、和田は1928年に自殺。遺体を秋田に引き取りに行って、荼毘にふし、遺灰を持ち帰って明科の庭にまき、花を育てて、押し花にして仲間に送った。1926年に吉田大次郎を描いた「死の宣告」(=「死刑判決」あるいは「判決の日」と同じ絵か?)は、同年の横井弘三による「理想展覧会」への出品作と考えられるという。

 五つ目の節目は、1928年3月、「全国労働者自由連合会第2回続行大会」で、「純正アナキズムとアナルコ・サンディカリズム系の暴力をともなう対立を目にし」たこと(『望月桂/自由を扶く人/展覧会/ZINE』による)であろう。これ以降、望月は、「次第に運動の第一線から距離を置くように」(同)なり、「11月、読売新聞社に入社し、犀川凡太郎のペンネームで政治批判や社会風刺の漫画を掲載」(同)するようになった。1931年に明科の父親が死去し、望月は家督を相続した(はずである)。1931年4月に読売新聞を退社以降はフリーとなって時に平凡社に勤め百科事典の挿絵を描いたり、図案の仕事をしながら時に郷里で農業をしたりして、1938年、漫画雑誌『バクショー』を創刊するのである。が、『バクショー』は次の年の2月で紙の支給がなくなったことで廃刊している。以降、「高島屋工業株式会社」に勤め、青少年寮の舎監、青年学校の教師となった。1945年、120名の寮生とともに郷里に疎開、終戦を迎えた。

 六つ目の節目は、なんと言っても終戦であろう。連合国軍の占領下で、望月は、農地開放をめぐる農民運動にかかわり、大地主としての土地のほとんどをあっさりと手放したという。明科の実家に住んで蔵をアトリエとし、松本南高校の美術担当教員を1965年まで続け、1975年、亡くなる年に信州新町美術館で初個展を開催した。そして、亡くなったあと、作品や資料は遺族によって大切に保管され続け、近年の調査に至り、今回の展覧会に至るのである。

 今回の展示は、出品作品総数110点、出品資料総数17点。これらの中から、印象に残った作品について、以下、メモしておきたい。

 まず、1902年作の水彩画「門」。
 15歳というのだが、うまい。整いすぎているくらいだ。こうした素地があっての画家・漫画家・教育者としての活動があったのだろう。

 東京美術学校西洋画科選科卒業制作の油絵「こたつ辺」(1910年)。
 よく描きこんで、確かな力量を存分に示している。当時の建物の中は、昼間でもほの暗かった。だから、一見、夜の光景を描いたような印象の絵だが、そうではないだろう。こたつがあって、ふたりの人物は綿入れを着用しており、猫がこたつで丸くなっているから、晩秋か冬。ここに描かれている老人と子供以外の大人たちは、外で仕事をしているだろうことが想像できる。画面の隅々までこの場面の明暗の階調をよくとらえて描いている。綿密な準備をして制作に向かっただろう。後年の墨や水彩による即興的、即応的な描画とは正反対の方向だ。

 1920年作の「製糸工場(女工)」、「遠眼鏡」、「反逆性」、いずれも紙に墨、水彩
 望月の活動のピークを成すと感じられる1920年の作品群のうち、これらははずせない。いずれもためらいがなく、どの部分をとっても一発で決めている。恐ろしい技量だ。その“恐ろしさ”は、ZINEの51ページ掲載の「反逆性」の裏面の線によるデッサン(?)の写真図版で、さらに増幅される。この時点ですでに構成に全くためらいがない。革靴のズボンが膝を含んでいるか脛から下だけなのか、ということや、自動車の車輪の位置が最終的に下がったところに確定された、というくらいの違いだけにすぎない。驚くべきことだ。「反逆性」では水彩で色が加わっているが、これもまったく手順に無駄がない。すごい。確かに未来派からの影響も感じさせるが、残像めいた形状の重なりも明瞭に描出されている。すさまじい切れ味であることは、どの作品からも見て取れるが、そのうまさをアピールするのではないところが、さらにかっこいい。

 1920年作の「機械は大丈夫か」(紙に墨、水彩)
 いってみれば、漫画なのだが、形式的にはアカデミックな描法と漫画との過渡期の表現に見える。夏目房之介の言う「形喩」や、誇張された顔つきの表現はたしかに「漫画」であるが、腕や手、衣服やカッターの構造、ショックで飛び出した眼球などの量感や質感の表現、また背景のグレイの処理には絵画的な“語法”が残存しており、全体としては異様な印象を生じている。が、そこが面白い。それにしてもほんとうにうまい。スパッ! と一発で決まっている。すごいな。他の漫画では、群衆の表現がとりわけ素晴らしい。まったく無駄がないのである。『漫文漫画』や『バクショー』の原画が保存されていたことにはとても驚いた。

 1926年作の「死の宣告」(紙に墨、水彩)
 関東大震災に乗じて、大杉栄らの虐殺したことへの報復で、陸軍大将福田雅太郎宅へ爆弾を送りつけて死刑判決を受け、翌月に絞首刑になった吉田大次郎を描いたようである。この絵と同様、三角形が画面中央にそそり立って、円と組み合わされている絵を、ちょうど先日、東京国立近代美術館「ヒルマ・アフ・クリント」展で見た。神秘主義的な表情を隠さないヒルマ・アフ・クリントの油絵と望月のこの絵とは全く違った表情になっている。油絵と水彩との違いに由来する違いではない。絵に込めた思いの違いだろう。
 望月の絵では、大きく描かれた三角形は密集するピラミッド=四角錐に支えられているし、縦に真っ二つに別れている。大きな三角形の向かって左側には赤いひかりが満たされていて、そこに吉田大次郎の顔であろうか、男の正面からの顔の正中線の向かって左側が描かれており、髪型、めがね、ちょび髭などが特徴的で、わずかに微笑んだ表情さえ読み取れるような印象だ。その顎のあたりには漢数字で「一八九」と書かれた札がはりこまれていて、少し離れた横に「傍聴券」と書かれた紙片も貼り込まれている。「一八九」の紙片は整理券であろうか。望月はこの判決の日に「東京裁判所」に出向いて傍聴していたのだろう。三角形の向かって右側は黒く=暗く、下方には髑髏があってその姿がガラス面のように映り込んでいるのか、そうでなければガラスの向こう側にも髑髏があるという設定なのか。図式的に見ればこの絵は「死の世界」を描いたということだろう。髑髏の口のあたりには何かが爆発したかのような表現が見受けられる。全体に、形状同士が重なり合った透明感が強調されていて、名状し難い世界が現出している。画面左側上に、足元から横向きの人物像だろうか、その胸に星形の階級章=バッジだろうか、さらにまたその上部に操り人形のようなものもうっすらと小さく描かれており、実に謎めいている。画面全体に気流のようなものが螺旋状の運動を示しているし、赤い提灯のような果物のようなものの隣に、お線香とそこからの一筋の煙さえあって、どう解読できるか。それにしても、じつに魅力的な絵だ。コラージュされた2枚の紙片を特別なものとせず、画面と一体化させていることも注目できる。非常に興味深い作品だ。

 1940年作の油絵「稔りの秋」。
 前年に、それまで1年半、自ら創刊し編集責任に当たってきた漫画雑誌「バクショー」が、紙の配給を軍部から止められて廃刊せざるをえず、明科に戻っていたのであろうか。水田組合の組合長・竹田信平から、皇紀2600年の記念に犀宮神社に奉納したい、と懇願されて描いたものらしい。滞在していた生家の近くの山側にあった法音寺まで、毎日キャンバスを担いで登って描いた、と説明文にはあった。望月も親しんできた「共有地」を含んだ水田地帯の大パノラマというべき風景を巧みに描いている。蟻よりももっと小さく、農作業する農民の姿をあちこちに描きこんでいたりして、サービス精神も満点である。東京での活動の場を失ったからといって、落胆しているような様子をこの絵からは伺えない。筆触と色面とを一体にして、決然と描き進めている様子からは、気力が充分に充実していることが示されている。
 地図で確認してみると、篠ノ井線・明科駅の南方向にある法音寺から、三つの川の合流点はほぼ西方向にある。描かれた樹々や山々の陰影から想像すると、昼下がりの風景であろうか。80号Mほどのキャンバスに描かれたこの絵にはスキがない。なかなかこうはいかないのである。やはり、この絵も、望月が、じつに確かな力量の持ち主であることを示している。

 戦後の墨絵を含めてともかくものすごい技量であるが、けっして声高ではない。素晴らしい。よくこうして発掘してくれた、と繰り返し思うのだった。

 また長すぎる文になっているが、最後に気になったこと。

 作品番号42 「階級闘争」の説明文のうち、望月による絵について「広い空の下で乳飲み子を抱いた女性と遠くに見える鋤もつ農夫」とあったが、絵を見ると、農夫が持っているのは、明らかに「鋤」ではなく「肥柄杓」(こえびしゃく)。肥柄杓は、肥溜めから下肥を汲み取ったり、畑に撒いたりするときに使う。望月の賛という「野にある/こゑは/正し」は、肥と声とを重ねてあるのだろう、と私は思った次第。

 そんなわけで、へとへとになって帰宅したが、この文を書く(打ち込む)のも大変であった。ここまで読んでくださった方も大変だっただろうと思う。すまん。

(2025年6月11日 東京にて)

望月桂 自由を扶くひと

会期:2025年4月5日(土)~7月6日(日)
会場:原爆の図 丸木美術館
公式HP:https://marukigallery.jp/8527/


写真1:会場の「原爆の図 丸木美術館」外観
写真2:黒曜会の機関誌の表紙の写真
写真3:入り口仮設壁のロゴと奥に望月81歳の自画像
写真4:偶然入手できたこの展覧会のチラシ、1920年の作品=「反逆性」があしらわれている。
写真5:チラシの裏面より

藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

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