色の不思議あれこれ077 2017-10-10
東京国立博物館で「運慶」展をみた その2
やがて見えてきた博物館の前に行列はなかった。少しホッとした。
会場ではまず円成寺の「大日如来座像」に迎えられる。
円成寺には学生の時、学校の研修旅行で訪れたことがある。その旅行では多くのお寺を巡った。その中でもこの像のたたずまいは印象深かった。障子越しの(たしか)逆光の中の姿に見入ったことを今も覚えている。とはいえ、その後円成寺を訪れたことはなく、それっきりだった。それを、いきなり、こんなに間近で見ることができる。すごい導入だ。正直、とても驚いた。
この像は、運慶20代半ばの作のはず。なのに、もう、すでに完璧である。体正面の向きに対して、頭の向きをほんの僅かずらしている(ようにみえる)。加えて頭部の正中線をごくごく僅かに傾けている(ようにみえる)。そのことが、超越的でありながらも親しみを伴うじつに生き生きした感じを像に実現している所以ではないか。この技量はただごとではない。それをガラス越しではなく直接間近に見ることができる。稀有なことだ。横に回れば、頭、首、肩、背中、腰、…、それらの有機的な繋がりがじつにたっぷりと的確に捉えられているのがわかる。すごい。手を合わせている人もいる。なるほど、そういう気持ちになるのもうなずける。しかし、バチ当り者の私は礼拝の対象としては見ていない。あまりにビックリして没入してしまい、もうここで大半の体力を使い果たしてしまった。文字通りバチが当たったのかもしれない。
会場では次から次にすごい像が現れ出てくる。すでに体力はほぼ使い果たしたが、私には貧乏性という武器がある。がんばるのだ。これでもか、これでもか、と現れる像たちは、ほとんどがガラス越しではなく、むき出し。こんなぜいたくな機会はもうないかもしれない。貧乏性がさらに募るのだった。
運慶の父=康慶作の像もあったし、快慶作の像、他の慶派の人たちの作もあった。文書など貴重な資料もあった。だから、この展覧会はさまざまな見方ができるように構成されている(はずだ)。
とはいえ、私にとっての圧巻は、やはり興福寺北円堂の「無着菩薩像」、「世親菩薩像」、それから南円堂の「四天王像」(増長天、広目天、多聞天、持国天)。これらが、惜しげもなく、むき出しで展示されている。ビックリした。北円堂も南円堂もほんとうに限られたごく僅かの期間しか一般公開されないうえに、正直、各像をひとつひとつこんなに集中して見ることができる状況にはない。なのに、なんということだろう。この展覧会では、ほんとうに「堪能」ということができる。疲れ果てているのも貧乏なのも忘れてしまった。
「無着菩薩像」と「世親菩薩像」はいずれも肖像彫刻としても素晴らしい。「無着菩薩像」の周囲を時計の反対回りにゆっくりと回って、背中から右手が見えた時、その手にはまさに血が通っていて、今ほら、動くのではないか、と思われた。そう思わされたのは、着衣の襞、つまり衣のなかにあるはずの体と布の表情との関係の見事さゆえであろう。頭部の表現ももちろん素晴らしい。
つづく→
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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