藤村克裕雑記帖237 2023-06-12
世田谷美術館への行き方を忘れてしまっていた日
近所にお住まいのOさんから、こんど世田谷美術館で「麻生三郎展」がありますよ、という内容のメモ書きとチラシが入った封書が届いたのは、まだまだ寒かった頃だった。
わざわざ知らせてくださったんだ、ありがたいなあ、楽しみだなあ、と思ったのだったが、その後ボヤボヤしていたらとっくに「麻生三郎展」は始まってしまって、明日は行くぞ、明日こそは行くぞ、と思っているうちに、会期の残りが一週間になってしまった。
で、雨の日曜日の午前中、家人と共に用賀駅に降り立つと、家人はこの先はバスで行く、と言う。美術館行きバスは一時間に一本だけで、しばらく来ないのが分かった。成城学園駅行きが来たので小田急線方向に行くのならこれでもいいはず、と当てずっぽうで乗り込むと、家人は運転手さんに、美術館に行くにはどこで降りるのかしら? とか何とか聞いている。運転手さんは、えと、砧、、、かな? と自信なさげに言っているのが聞こえた。
バスを降りたところは初めての道筋にあるバス停だった。やむを得ず、時々見える清掃工場の煙突を目印に歩き始めた。じきに案内板が見つかってその矢印に従って行く。つまり、どのバスに乗ればいいのかすら忘れてしまっていたのである。とは言え、初めての道筋をしばらく歩いて何とか公園に辿り着けた。緑が美しかった。
麻生三郎の大きな展覧会は東京国立近代美術館以来、十数年ぶりである。
その間にOさんと知り合った。ある日、Oさんがきちんと額装された麻生三郎のペンデッサンを貸してくださった。本物だ。貸してくださったいきさつは忘れてしまった。運河べりの風景が描かれていた。せっかくだから、と模写してみると、現場でいかにも素早く描かれたかのようなその風景のデッサンが、微細な点の一つ一つに至るまで、実に構成的な意志を伴って描かれていることに気がついて驚嘆した。す、すごい!
模写に「ASO」のサインを真似て「ASSO」と書き込んでおどけ、驚きをごまかした。その模写をしまい込み(行方がわからない)、Oさんにオリジナルをお返しした。その時以来、麻生三郎は特別な人になった。
会場に足を踏み入れると、1948年の「子供」という絵から始まる。その年の暮れに三軒茶屋にアトリエを構えたという。1972年に生田に移るまでの間の仕事が今回は紹介されている。世田谷、というところに着眼しての企画。
1948年、49年、50年と、しばらくの間は娘さんや奥さんがモデルになっていて、背景が黒い油絵が続く。キャンバスの表面が波打っていて、さらに照明で光って、よく見えない。見えないが、黒と言っても単純な黒さではない。厚くなってもなお重ねられた塗り込み、黒さの中に多様な色相が混入しているのが発見できる。一見、アクセントのように朱が与えられたりもするが、アクセントだけの役割にとどまることはない。ある種の象徴性を帯びて、麻生三郎の絵の中に繰り返し現れ出てくる。空襲の火の色か? また、画面の上下に帯状の枠のような領域が現れ出ることがある。これが興味深い。
1950年の「裸A」や1951年の「ひとり」では腕や手の表情が実に巧みである。手や足、目の表情が大きな役割を果たすのは麻生三郎の絵の一貫した特徴だろう。
1953年「母子」を見ていると、額縁にごく小さな虫がついていて、しかも少しずつ動いているのに気がついた。虫を見ていると、やがて額縁を越えて画面上方に”降り立ち”、少し動いては止まり、動いては止まる。監視のお姉さんを手招きして、虫のことを“告げ口”した。お姉さんに、ほら、この辺りに、と言うと、あれま、ほんのちょっとの間に虫の姿が消えていた。お姉さんと並んで虫を探していると、いた。上辺右隅の「ASO 53」のサインの「0」のところにじっとしている(ここも帯といえば帯になっている)。お姉さんも、あ、と言って、学芸員に知らせます、と言う。学芸員はこの虫をどうするのだろう、と思ったが、あとはお姉さんに任せて鉛筆を借りて一旦その場を離れた。
花を描いた絵が登場する。朱色の上と下の帯状の枠が花の絵では四辺に延びようとしている。
振り返るとデッサンがある。
ちょっと進むと土門拳が当時麻生家を撮影した写真パネルがある。
1955年の「人のいる風景」では色のきれいさに息を呑んだ(帰りに買った図録の図版を見てがっかりした。あの絵の良さが全く捉えられていない。写真や印刷ではあの透明感を捉えるのは無理なんだろうか)。すでに“家族”ではなく普遍化した“人間像”になっていて、画面右側で丸椅子のようなものに腰掛けている人の姿が横向きに捉えられ、風景らしきと組み合わされている。ところどころにグリット状の広がりを暗示する十字の線が見え隠れしている。太陽か月か、円の形状も登場してくる。上辺の帯状の領域は空、下辺の領域は地面かとも思うが、1957、8年くらいから、始めは遠慮がちに、やがて確信的に画面左右にも帯が加わってくる。そうなると、四辺の領域は明らかに意味が異ななってくるだろう。「画面」ということの強調。エモいわれぬ小さな青の色面が“決まって”いる。
Oさんが貸してくださったのと同じような“風景”のペンデッサンが並んでいる。どれも素晴らしい。光が満ち満ちている。当時の東京を全く知らないにも関わらず、現場に立ち会っているような気がする。
1960年の安保闘争が影を落としているのか、絵が変化する。人間の統一された像がバラバラになって溶解しつつ画面と一体化するかのような表情を帯びてくるのだ。薄く解いた絵の具の滴が上から下へばかりでなく、下から上へ、右から左に、左から右へと定着されている(つまり画面をひっくり返したり、横向きにしたりして描いているのだ)。鋭い引っ掻き線も随所に登場し、塗り込みも不定形を成して丹念になされ、四辺の帯=枠の効果もあって、「画面」ということが強調されているかのようだ。1961年の「仰向けの人」、同年の「死者」、1962年の「人と雲」など、大迫力である。中でも「人と雲」のぬるりとした不気味さは忘れ難い。
家人が、何だか靉光の絵を連想するわ、とつぶやく。「新人画会」で一緒だったから、と応じながら考える。麻生三郎の絵の所々に登場する“目”の表情ゆえだろう。
1962年「燃える人」、1964年「胴体と頭と電球」、1965年「頭」など、実に見応えがある。まとまりとして見出せる像が次々に変転してしまって、一つところに収まらない。人間像であるもののはずが、安定した像を安易に結ぶことを許さないのである。そのせいか、ある種の悲劇性を帯びた情感を訴えてくる。
一貫して色はきれいだが、時を追って次第に明度のコントラストが増してくる。
彫刻が2点。丸に近いお団子状の小さな塊が、女性全身像を形作るモデリングの基本単位となった作品である。その基本単位でどのように形を大きく確定しているかを観察すると、絵と同じ作り方であるのが分かる。その一貫性は見事なものだ。
本や雑誌の装丁や挿絵の仕事、その原画の展示もあって至れり尽くせりであった。
また、麻生三郎所蔵というベンシャーンの版画集などの紹介もあって、さらに二階では思いがけず「実験工房」の関係者の展示もあって、気がつくと長い時間が経っていた。
レストランで食事して外に出ると、雨は上がっており、てくてく用賀駅まで歩くことにした(レストランは、ガラガラに空いていたのに容易に入場を許されず、長く待たされ、またお高くて、パンのおかわりも有料、食後のコーヒーやデザートを頼まなかったせいかメインディッシュを終えた瞬間に皿などを片付けられるなど、いろいろ不愉快極まりなく、私どもはもう2度と行かない。そういえば以前も不愉快だった。そんなことも忘れてしまっていた)。
帰りの電車で読んだ図録では、麻生マユ氏、野見山暁治氏の文章が面白かったが、作品写真の図版の色はひどすぎる。呆れてしまった。貧乏な老人は図録など買わず、レストランなどで食事もせず、展示だけ見てとっとと帰ってくるべきであった。
(2023年6月11日、東京にて)
会期: 2023年4月22日(土)~6月18日(日)
開館時間: 10:00~18:00(入場は17:30まで)
休館日: 毎週月曜日 ※5月1日(月)は開館します
会場: 世田谷美術館 1階展示室
主催: 世田谷美術館(公益財団法人せたがや文化財団)
後援: 世田谷区、世田谷区教育委員会
特別協力: 神奈川県立近代美術館
(個人)
一般 1200円/65歳以上 1000円/大高生 800円/中小生 500円
※障害者の方は500円。ただし小中高大生の障害者の方は無料。介助者(当該障害者1名につき1名)は無料(予約不要)
※未就学児は無料(予約不要)
公式HP
https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00213
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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