

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
草間彌生展にいってきた 2
2017-06-30
それにしても、このくらいの距離から見て描いただろう、という位の距離に近づいて作品を見ると、色がハレーションを起こしてギラギラし、よくこれに耐えているものだ、と思う。正直、気持ちが悪くなってくる。このくらいの状況を自らつくり出さないと、彼女は壊れてしまう、ということなのかもしれない。そんなことを巷間伝え聞く。もしそれが本当ならば、いかにも大変だ。つらいだろう。彼女は絵を描くことを本当に「必要」としているのである。そのことが、よく分かる。
次の部屋には最初期の作品が並んでいた。小学校五年生の時に描かれた今や超有名なデッサンもある。私ははじめて実物を見た。とても繊細、というか繊細すぎる絵で色感のよさが明らかである。さらに、花瓶や花、人物にあらわれているかたちの的確さは、知的な資質を示している。そんな絵に小さな水玉がたくさん描き込まれているのだ。草間の水玉。
京都美大の学生時代にはよく学んでいた様子が伺える。すでに独自の世界を探求しようとする姿勢が明らかだ。日本画のコースの学生だったはずだが、さまざまな材料を使いこなしている。色は最初期からとてもきれいだし、イメージもすでに独特である。こんな学生に当時の京都美大の先生たちはどんなことを言っていたのだろう。
ガッシュで描いた絵やコラージュでの作品群も素晴らしい。見惚れる。圧倒される。サイズは小さいのに、グイッと引き込まれる。
すごいなあ。
このあたりでもうへとへとに疲れてしまった。あとの作品群はボーッとして見てしまった。もう一回見に来るか、来れるか。
余談ながら、グッズ売り場の会計に至る大行列に、なんと「50分待ち」の表示。私、“やよい人形”をゲットするために並んだのだ。列に並んでいた「おじいさん」は私くらい。頑張ったぞ。
帰宅して、森アートセンターと記されたタグに気付き、あれま、森美術館で扱うかも、と思ったものの、こうしてグッズを買わせてしまうパワーが確かにみなぎっていた展覧会。このパワーにはあやかりたい。
2017年3月16日、東京にて。
次の部屋には最初期の作品が並んでいた。小学校五年生の時に描かれた今や超有名なデッサンもある。私ははじめて実物を見た。とても繊細、というか繊細すぎる絵で色感のよさが明らかである。さらに、花瓶や花、人物にあらわれているかたちの的確さは、知的な資質を示している。そんな絵に小さな水玉がたくさん描き込まれているのだ。草間の水玉。
京都美大の学生時代にはよく学んでいた様子が伺える。すでに独自の世界を探求しようとする姿勢が明らかだ。日本画のコースの学生だったはずだが、さまざまな材料を使いこなしている。色は最初期からとてもきれいだし、イメージもすでに独特である。こんな学生に当時の京都美大の先生たちはどんなことを言っていたのだろう。
ガッシュで描いた絵やコラージュでの作品群も素晴らしい。見惚れる。圧倒される。サイズは小さいのに、グイッと引き込まれる。
すごいなあ。
このあたりでもうへとへとに疲れてしまった。あとの作品群はボーッとして見てしまった。もう一回見に来るか、来れるか。
余談ながら、グッズ売り場の会計に至る大行列に、なんと「50分待ち」の表示。私、“やよい人形”をゲットするために並んだのだ。列に並んでいた「おじいさん」は私くらい。頑張ったぞ。
帰宅して、森アートセンターと記されたタグに気付き、あれま、森美術館で扱うかも、と思ったものの、こうしてグッズを買わせてしまうパワーが確かにみなぎっていた展覧会。このパワーにはあやかりたい。
2017年3月16日、東京にて。
草間彌生展にいってきた
2017-06-30
かつて、おじいさんは山に芝刈りにいったし、おばあさんは川に洗濯にいった。いま、おじいさんがいくのは古本即売会や骨董市。おばあさんは連れ立って美術館にいく。
東京・六本木・国立新美術館で開催中の「草間彌生展」にも、おばあさん、あるいはおばあさん“予備軍”が多数押し寄せていた。男女を問わず若いひとたちの姿も目立った。平日の昼間。
チケット売り場に並ばねばならなかったとはいえ、中では比較的すんなりと見ることが出来て、とても満足して帰宅した。
いきなり、壁に二段組み三段組で、上下左右に隙間なくびっしりと展示された大画面群の大きな部屋。もう、呆気にとられてしまった。す、すごい、といえば確かにすごいのだが、ああして一望のもと百点以上の大作群が目に飛び込んでくると、あまりのことに口あんぐりなのだった。そこにいる多くの人びとは誰もいかにも楽しげに回遊し、互いに会話を楽しみ、記念撮影などにいそしんでいる。そのコントラストにも驚かされた。
落着いて一点一点に目を凝らしていくと、地塗りされた上にぐいぐいすいすい描かれて、はい終わり、というような簡単なものではないのがよく分かる。色の対比がじつに大胆不敵で、重ね描きされた所はまったく勘所をはずすことがない。画面が一定の力=緊張感を孕むまできちんと手が入れられている。手抜きの作品はひとつもない。さすが、と思わせられる。すごい集中力だ。
テレビで制作の様子がたびたび放映されてきたから、どんなところで、どんな風に描いているかは知っている。ベタに地塗りされたキャンバスをテーブル上に水平に置いて手が伸びる範囲の所を描いていく。手が届かないところはキャンバスをくるりと回転させてかまわず描いていく。時々、壁に立てかけて全体を確認し、必要な所には手を加えていく。その時天地をどうしているか、いつ天地を決めるのか、テレビでは見た記憶がない。会場外に流れていたビデオでは、絵の裏側にフェルトペンでタイトルとサインを入れていたから、その時には天地が決まっているのだろう。ともかく、大きな画面を水平にして描いていることが、作品群に特有の表情を帯びさせているように思える。描かれるイメージもタイトルも私の容量をはるかに超えている。素直に草間の世界に従うしかない。
東京・六本木・国立新美術館で開催中の「草間彌生展」にも、おばあさん、あるいはおばあさん“予備軍”が多数押し寄せていた。男女を問わず若いひとたちの姿も目立った。平日の昼間。
チケット売り場に並ばねばならなかったとはいえ、中では比較的すんなりと見ることが出来て、とても満足して帰宅した。
いきなり、壁に二段組み三段組で、上下左右に隙間なくびっしりと展示された大画面群の大きな部屋。もう、呆気にとられてしまった。す、すごい、といえば確かにすごいのだが、ああして一望のもと百点以上の大作群が目に飛び込んでくると、あまりのことに口あんぐりなのだった。そこにいる多くの人びとは誰もいかにも楽しげに回遊し、互いに会話を楽しみ、記念撮影などにいそしんでいる。そのコントラストにも驚かされた。
落着いて一点一点に目を凝らしていくと、地塗りされた上にぐいぐいすいすい描かれて、はい終わり、というような簡単なものではないのがよく分かる。色の対比がじつに大胆不敵で、重ね描きされた所はまったく勘所をはずすことがない。画面が一定の力=緊張感を孕むまできちんと手が入れられている。手抜きの作品はひとつもない。さすが、と思わせられる。すごい集中力だ。
テレビで制作の様子がたびたび放映されてきたから、どんなところで、どんな風に描いているかは知っている。ベタに地塗りされたキャンバスをテーブル上に水平に置いて手が伸びる範囲の所を描いていく。手が届かないところはキャンバスをくるりと回転させてかまわず描いていく。時々、壁に立てかけて全体を確認し、必要な所には手を加えていく。その時天地をどうしているか、いつ天地を決めるのか、テレビでは見た記憶がない。会場外に流れていたビデオでは、絵の裏側にフェルトペンでタイトルとサインを入れていたから、その時には天地が決まっているのだろう。ともかく、大きな画面を水平にして描いていることが、作品群に特有の表情を帯びさせているように思える。描かれるイメージもタイトルも私の容量をはるかに超えている。素直に草間の世界に従うしかない。