藤村克裕雑記帳268 2024-11-07
「北川民次展 メキシコから日本へ」を見た
北川民次といえば、図画工作や美術の教科書でなぜかおなじみだった。岩波新書『絵を描く子供たち』の背表紙でもその名はずっと知っていたが、全貌を知らなかった。
快晴の日曜日(文化の日)、田園都市線・用賀駅に降り立ってテクテク歩き出す。
象設計集団によるあの遊歩道は今も健在で、ほどなく国道に出て砧公園が見える。
せっかくだから樹々を愛でながら行こう、と信号待ちして国道を渡る。
公園に入って歩を進めれば、大きなクスやケヤキの堂々とした姿や木漏れ日が嬉しいはずが、奥に複数のテントがしつらえられていて人々が群がっており、拡声器からお姉さんの早口の大きな声がしている。拡声器だから大きな声は当たり前だが、イベントの真っ最中らしい。樹々どころではない。ホーホーのテイで世田谷美術館に逃げ込んだ。
チケットを買って、会場に入り、一点一点佇んで眺め入り、巡っていけば、ほう、こういう人だったのか、と興味深い。作品と資料、合わせて180点ほどが並んでいる、という。が、途中からなんだか時系列がよく分からなくなる。この人の経歴は複雑なのだ。とりわけ若い頃の移動はめまぐるしい。会場出口に掲げられていた年譜を参考に一度整理しておくことが必要だろう。
1894年静岡県生まれ。早稲田大学予科を経て、オレゴン州在住の兄を頼って1914年に渡米、しばらく西海岸で過ごすが、1916年シカゴを経てニューヨークに移り住む。働きながらアート・スチューデント・リーグで学び、1920年アメリカ南部へ向かう。1921年キューバに移るが、正体不明の日本人にお金やドローイングなどを入れたトランクを盗まれ、やがてメキシコ市に移る。1922年日本人医師を頼ってコスコマテペックに移る。1923年その医師と共に熱帯地方(ベラクルス州)に赴き、その後ひとりで放浪しながら絵を描き、メキシコ市で個展。1924年国立美術学校で学び三ヶ月で卒業。そこの校長からの推薦でチュルブスコ野外学校の画学生になる。1925年トラルパン野外美術学校の助手になる。1926年トラルパン野外美術学校に用務員として正式に勤務する。1928年国立芸術宮殿ギャラリーで個展。1929年二宮鉄野と結婚。1930年長女誕生。1931年ニューヨークでの「現代メキシコ作家とメキシコ派の作家展」に出品。シケイロスに会う。1932年トラルパン野外美術学校閉校、開校したタスコ野外美術学校に校長として勤務。メキシコを訪れた藤田嗣治との交友(翌年6月まで)。1935年シカゴ美術館内こども美術館で北川指導の子どもたちの「作品展」。国吉康雄、イサム・ノグチがタスコに来訪。1936年タスコ野外美術学校閉校、日本に帰国。
ここまでが主にメキシコで活動したおおまかな足跡である。会場には1921年作の油絵から展示されている。日本を離れてからメキシコを中心に22年経て帰国だ。続ける、、、。
1936年帰国後、瀬戸市(妻:鉄野の実家があった)に滞在する。1937年上京、豊島区長崎仲町(現千早町)に住む。二科展に出品、二科会会員。日動画廊で個展。1938年久保貞次郎来訪。1939年「海王丸」で沖縄、トラック諸島を巡る。長男誕生。1940年ニューヨーク近代美術館「メキシコ美術の2000年」展に「タスコの山B」が展示。1941年「コドモ文化会」を久保貞次郎らと設立。1942年絵本『マハウノツボ セトモノ/オハナシ』刊行。1943年二科会の活動停止。瀬戸市安戸に疎開。
ここまでが帰国後東京での活動の足跡だ。戦争、疎開、、、。藤田嗣治とは東京で再会したらしい。藤田1937年作の「北川民次の肖像」が展示されている。ご当人(北川民次)はこれを気に入らなかったようだ。
1944年瀬戸高等女学校の教員として赴任。1945年終戦。1946年再建二科展。1949年「名古屋動物園児童美術学校」開設。1951年瑞穂区に「北川児童美術学園」開設。
1955年1月メキシコ再訪。12月にニューヨークへ移動。1956年1月パリに滞在。スペイン、イタリアを経て5月に帰国。1965年以降壁画制作。1968年東春日井郡に移る。1974年妻の鉄野死去。1978年二科会会長。数ヶ月後に辞任、退会。筆を置く。1988年瀬戸市の病院に入院。1989年瀬戸市の病院で死去。
瀬戸市移住後のことは端折りすぎたかもしれない。
ともかく、早大予科時代に絵画に関心を持ち、やがて描き始め、日本を飛び出して20年以上を海外で生活と制作と続けて帰国し、戦争を経て、1978年に筆を置くまで、ほぼ休みなく活動したわけで、こんな人はそんなに多くないはずだ。パリではなく、日本→アメリカ→メキシコ→日本、というのも彼の独自性がうかがえる。
展示は、六つに“章立て”されて、その“章”ごとに時系列で並べられていて、時系列の把握が混乱してくる所以になってしまっている。回顧展であるなら、やはり時系列を大事にしてほしい、と思うのは私だけだろうか。
ともかく、以下のような構成であった。
Ⅰ 民衆へのまなざし、
Ⅱ 壁画と社会、
Ⅲ 幻想と象徴、
Ⅳ 都市と機械文明、
Ⅴ 美術教育と絵本の仕事、
エピローグ 再びメキシコへ。
会場を巡って、これは大変に器用な人だなあ、との印象が繰り返し押し寄せてきた。
一見、素朴で親しみやすい土俗的・民衆的な表情をたたえた作品群だが、注意深く見れば、多くの先人(例えばセザンヌ)や同時代人(例えばピカソ、リベラ、藤田嗣治、レジェなど)からかなりの影響を受けている様子が見て取れる。が、それをナマのまま晒すことがない。そこが、“器用さ”を感じさせるところである。影響を受けることを恐れないが、どんな影響もいったん良く“咀嚼”して自分のものにしていく、これがこの人の信条なのだろう。
そして、色感が独特である。多くは褐色系のグレイを基調にして、そこに白と黒とをアクセントのように配している。青や赤や緑などの原色もまた、褐色系のグレイに準じて彩度を抑え込みながら抑揚を加えて配している。
結果、破綻がない。かといって、鈍い、というわけではない。色どうしに独特の響き合いがある。後年、黒線で形状を囲い、鮮やかな色彩を用いるようになっても、こうした半調子を確立した時期を経ていることが効いている。
典型例として、1930年の作という40号ほどの油彩=「トラルバム霊園のお祭り」を見ていこう。
“大小の遠近法”と“重なりの遠近法”とを主に用い、おおらかな“線遠近法”を加味して地形や建物を巧みに構成して配し、そこに、さまざまな人物や物品を細部に至るまで丁寧に描き上げてある。
単純化しつつも線的に明快な形状の組み立ては、古典的な風格さえたたえていて、見飽きることがない。
画面下。
手前の7人の人物が立っている場所は小高い丘のようで、ある人は空を見上げ、ある人はあたりを見下ろしている。が、仔細に見ていくと、白いスカートの裾からは平板な地面が描かれているばかりである。つまり、奥にある(はずの)橋の手前に転がる髑髏が小さく描かれてはいるが(大小の遠近法)、白いスカートの裾からの地面の奥行き=落差=その距離の描出、それらの“説明”は不十分である。
が、“説明”は不要なのだ。なぜなら絵なのだ。これは絵でなければ成り立ち得ない表現なのである。
加えて、多肉植物の姿がまるで絵巻物や屏風における雲のような役割(時空を切断する役割)を果たしている。それもあって、足元の地面は、褐色から焦茶色へのグラデーションを成しているだけなのに、スカートの裾から髑髏までの不思議な奥行き感=距離感を作り出していると言えば言えないわけでもない(く、苦しい、、、かも)。
これらは素朴さを装った北川民次の確信犯的な力技で、この絵の見所のひとつであろう。
手前の7人の人物たちはじつは8人で、8人目は女の胸に抱かれた赤ん坊である。じつは北川民次に長女が誕生したことを描いている(らしい)。注意深く見れば、北川民次その人や夫人の鉄野の姿も描かれているように見える。
一方、丸裸の女たちが水浴びしている川、その川にかかる橋に至らんとする行列の中には小さな棺を頭の上に乗せた男の姿が認められ、行列の先には墓が立ち並ぶ霊園が描かれている。つまり、一方では誕生した命、もう一方では幼いまま死んで行った命、その対比を描き込んでいるわけだ。
さらに、霊園の塀の外には牛飼いと牛たちがいつもながらの姿を見せており、霊園のさらに奥の塀越しに見えている教会のある集落には人々が行き交って、日常生活が展開している。遠くの路上にはロバを引く男の姿がごく小さく認められたりもする。
こんなふうに、生と死と日常とが等しく展開し、空には雲がどんよりと広がってところどころに不思議な雲が湧き出ている、という、そんなお祭りの日の様子が巧みに描き出されているのである。
これはこの絵の作者の“世界観”の表出であろう。この絵の作者は“絵の力”を信じている。
多くの人々が裸足だったり、黒布で髪を隠していたり、花束を抱えていたりすることなど、当時のメキシコのふつうの人々の様子が面白い(そういえば、北川民次の絵には繰り返し花束や壺に生けられた花々が登場する)。この絵には、北川民次の並外れた力量がよく示されている。
1936年の帰国後は、一旦、妻:鉄野の実家があった瀬戸に身を寄せて、陶器工場を描いたり瀬戸の風景を描いたりしていたようだが、上京後の1937年に二科展に出品した200号の「タスコの祭り」は、メキシコを題材にしており、そこに描かれた人々の全体のかたまりが一頭の横向きの馬のようにも見え、興味深い。この絵に関しては、久保貞次郎の興味深い一文を思い出した。本を見つけることができたので書き写しておく。久保が詩人の小熊秀雄に北川民次のアトリエに連れていってもらうくだりである(久保貞次郎『わたしの出会った芸術家たち』形象社、1978年、p220)。
(略)。/小熊につれられていった民次のアトリエでは、民次が銀座に外出しようとする直前だったが、このメキシコからの新帰朝者は、驚くほどの率直さとデモクラティックな態度でぼくを迎えいれ、二〇〇号大の木枠にはった紙の上の絵をはけで塗りつぶしていた。あとで知ったのだが、塗りつぶされている絵は、前年二科に出品した「メキシコ銀鉱山の内部」の図で、新しいカンバスを買う金に欠乏していた民次は、それを白のテンペラで塗りつぶして、その上に「メキシコ戦後の図」を描き上げたのである。 /前年の二科にやはり出品した「タスコの祭日」二〇〇号はすでに、そのころは藤田嗣治のあっせんで秋田のパトロン、平野政吉のコレクションに入っていたので、塗りつぶしの悲運からはまぬかれたようである。/(略)」
この一方でリノカットや木版の連作をしたり、池袋や落合の風景を描いたりもしている。
さらに、「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」に出品したという「岩山に茂る」のように、シュルレアリスムからの影響を強く感じさせる作品も描いていたし、藤田嗣治からの影響を感じさせる作品も展示されていたがタイトルを失念した。
1941年には「大日本航空美術協会」の会員となって、「軍事産業(下絵)」(1941年)、「戦闘機と男女」(1942年)、「鉱士の図」(1943年)、「豊漁の図」(1943年)、「〔出征兵士〕」(1944年)、のように、戦争の影を色濃く感じさせる作品もあったが、総じて、いわゆる「戦争画」からは迂回できて、絵本などを作りながら過ごせていたようにも感じさせられた。
戦争が終わって、作品発表の舞台だった二科展は1946年にいち早く再開し、北川は終戦後も疎開した瀬戸にそのまま住み続け、二科展への出品をはじめ画家としての活動を続けていく。
戦後の活動の中では、とりわけ、1955年のメキシコ再訪。これを契機に壁画に取り組み始めたことが大きく、また、児童への美術教育にも一定の役割を果たし続けた。
私が教科書で「北川民次」を覚えた頃には、“様式”も安定して、あ、これは北川民次の絵だ、と他と区別できた。ここでは、ピカソやレジェからの影響を指摘できるだろう。
ちなみに、教科書への登場は、先の久保貞次郎の役割が大きかっただろうことが想像できる。久保は「光村教科書」の「共同編集者」一員だったのである。“なぜか、教科書でお馴染みだった”、という幼い頃の“なぜか”の疑問は、先に引用した本の一節で解けた次第。
売店で図録を買おうかと思ったが、ちょっとお高くて、手が出なかった。もちろん、あのお高いレストランで一休み、などという身分ではないので、そのままテクテク用賀駅に向かったのだった。
(2024年11月6日、東京にて)
生誕130年記念
北川民次展―メキシコから日本へ
会期:2024年9月21日(土)~11月17日(日)
開館時間:10:00~18:00(入場は17:30まで)
休館日:毎週月曜日
※9月23日(月・振休)、10月14日(月・祝)、11月4日(月・振休)は開館、9月24日(火)、10月15日(火)、11月5日(火)は休館
会場:世田谷美術館 1階展示室
主催:世田谷美術館(公益財団法人せたがや文化財団)、東京新聞
後援:世田谷区、世田谷区教育委員会
公式HP:https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00220
写真1:「トランバム霊園の祭り」展示のようす
写真2:「トランバス霊園の祭り」の部分
写真3:「トランバス霊園の祭り」の部分
写真4:「タスコの祭り」の展示のようす
写真5:「岩山に茂る」展示のようす
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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